那智子のアトリエたより



                  画家から届いた手紙を随時掲載します 

             (平成15年6月から18年8月)


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平成18年4月7日 「白い花もつ少女」



今日、作品「白い花もつ少女」6号が完成した。東洋と西洋を結ぶ国として有名なイスタンブールを旅したとき、そのエキゾチックな風貌や大地から発する匂い、異文化の目くるめくような魅力にもまれて、自分が新たな感覚にきめいているのを感じた。フェスタのあとであろうか、一人の民俗衣裳をまとった少女と出会う。その素朴さや愛らしさに胸がキューンとなった。その瞳の奥に宿る魂の優しさに、こんな美しいものはないと思えて来たのだった。この作品は6月1日からの金沢大和展にて展示されます。
                                    


平成18年4月6日 画業50年展に向けて


今年の6月1日から6日までの金沢大和デパート展は、言ってみれば金沢での私の復活展みたいなもので、しかも画業50年記念なので、今から作品を並べた会場のことを頭に浮かべると、それだけで胸がワクワクして来る。それにしても金沢の方々は日本一美術品を見る眼を持っているので、私にとっては大変緊張する出来事だが、26才頃から時々やらせていただいているので懐かしい皆様に会える喜びの方が大きい。今日出来あがった作品は「クスコの広場」という絵で、ペルーの歴史的な美しい街並を、ポコポコと二匹のリャマと赤い民族衣裳を着た女性がいそいそと家路に向かうところを描いたものです。こんな世界を思っただけで、心はくつろぎます。
                 


平成18年3月8日 「アンデスの少女」を刺繍作品に



今日、ひとりの女性の方からお電話があり、アンデスの少女をインターネットで知り、可愛いので是非刺繍したいので許可してくれ、との依頼があり嬉しかった。日本に帰ってきて25年間アンデスの少女を描き続けてきたが、全く未知の方から可愛いいと言って戴いたことは初めてなので、私も一筋にアンデスの少女の素晴らしさを追求してきたことに対して改めて自信と希望が生まれてきた。「アンデスの少女」と題する作品は多数あり、今回はどの少女が女性の方の眼に止まったのかは、その方の作品が仕上がるまでは全くわからないが、我が子に面会するように楽しいし、ワクワクする。今日このことをきっかけとして、手持の「アンデスの少女」を昔の案内状の中から一枚お見せ致します。美しい自然と良く似合うアンデスの少女よ、いつまでも素朴で美しくあれ。
                               


平成18年3月8日 街を行く馬車


2年前にマルタ島という地中海に浮かぶ小さな楽園のような島を取材しました。なかなか新しい画境に踏みこむのが難しく、油絵の作品で枚数を揃えるのが大変で、滞っていましたが、ついに今年の新宿伊勢丹展が決定し、新しい作品を、ということでそろそろ仕事を始めています。一年前には地元で水彩画展を開催しましたが、マルタ島のことはやっとこの頃一般に知られるようになって来ていますが、まだまだものめずらしく好評でした。素朴で海や街がきれいで、さりげなく自家用の馬車を操っている若者がいたりして、心楽しいものがありました。
   
ー地中海の陽光マルタ島を描くー 中出那智子油絵展 8月16日から22日まで新宿伊勢丹にて開催予定
 
           
                       


平成18年2月1日 ペルー取材の想い出7


 旅の後半は空中としマチュピチュを取材。当時住んでいた人たちがじゃがいもを植えていたという段々畑を写真に撮った。そして最後はジーンと心に沁みるチチカカ湖取材。このチチカカ湖がたまらなく風情をたたえた湖なのだ。
そうしてこのなだらかな山々に沿ってリャマたちがたむろしている。湖の中程に葦の浮き島があって、違う種族が住んでいる。そして無垢な少女との出会いがあった。彼女は葦舟に乗ってアメリカの観光客の舟遊びの担い手をしていた。葦の根の白い部分はうす甘い味がして食することが出来ることをこの時知った。もうじきこの旅は終わるのだと思うと、チチカカ湖のほとりの木一本草一本全部に愛着が湧いて来て、涙が出そうになった。そんなことも知らず一本の木の下で一夜を明かした一匹の野生のリャマが朝日と共に起き出してコトコトとチチカカ湖のほとりの散歩を始めた。毎日そうやって遊んでいるリャマのことを今想い出し、私は今日もアンデスの少女やリャマの姿を絵にするのだ。最後の朝食の折、食堂に飾られた真赤なダリアが今でもはっきり想い出される。ダリアは全くチチカカ湖にピッタリの花だった。





平成18年2月1日 ペルー取材の想い出6


 ピサックから更に高い所にプレ・インカと言われる観光拠点があって、インカ帝国より更に前にインカ以上に栄えた土地があったのだそうな。そんな所まで案内してくれなくても、と思ったがガイドにしてみれば、より多くの人に歴史を説明したくて連れて行ってくれるのだろう。その帰り道、待ってましたとばかり、岩の高い所に女の子を座らせている主婦がいた。リャマの毛で編んだセーターと朱色のスカートをはいた4才位の女の子は、湖上を渡る冷たい風に吹かれ、口をキリリと結び、お母さんの言うとおり泣きもせずカメラを向ける私の方を見ている。私はその不思議な色の赤い服装に興味を持って写真を撮ったのだが、このあたりには1軒も家がなく、突如として現われたこの少女はまるで幻を見る思いがした。恐らく何時間も歩いて、唯一観光客の通るこの道に、何か考えることがあって来たのだろう。事情を感ぐることも知らなかった私は、写真を撮るだけで立去ってしまい、今になってみれば、何であの子はあの岩にいたのだろう、とまで考えが及ぶのである。それにしても、何とかして生きて行こうとする人間のすさまじいまでの執念と人間の根源的な強さを見る思いがする。あの少女のまるで魂までとどろかすような強い意志のまなざしのスゴザは何処から来ているものなのであろう。多くの歴史を経てきた、その中味に依って出て来たものなのであろう。




平成18年1月31日 ペルー取材の想い出5


 
明日はいよいよピサックの朝市を見に行くのだと思うと興奮して夜も寝つけない程だった。登中、雪どけ水の真黒に濁った谷川のほとりを列車がゴトゴト走って行くのであるが、ゴロゴロとどろくようなあんなすごい川は世界でもあまりないのではないか。列車を降りてから小さな村に入ると何と広場があってそこでサッカーが行なわれていた、高地民族にとっては走り回るのは何でもないのだろう。ピサック市場には少女がいて物珍しげに私を見ていた。私もその少女を見て、文明に侵されていない単純で素直でとても心が清らかで、そして強いものを見つけたような気がして、自分が何でこんな3千500米もある所にまだ見ぬ魅力に導かれてやって来たのかを、その姿の中に学んだような気がした。帽子はそれぞれ種族ごとに分れ、おのおの仲間で野生のジュースを飲んだりして日曜日という幸せに酔いしれていた。老女も民族衣裳に身をまとい、それぞれの種族の誇りときずなに今日という日を一生懸命生きているかに見えた。身にまとう織物はみな家族で織り、その衣裳だけがいわば自分自身の財産で、すべてなのである。たとえば嫁ぐときは、何枚もスカートを重ねて着たりするのだ。特に日曜日には色鮮やかに種族が競い合い、朝市の広場は展示場の如きはっきり言ってずっと長く見ていると心が苦しくなってくる位に一途な思いに圧倒される、更に言えばまるで彼女と私は一騎打ちをしているようでさえある。若い娘たちは体格もよく、声もリンリン張りがあって、生活力のたくましさに満ち溢れている。




平成18年1月29日 ペルー取材の想い出4


 
とにかく有名なクスコの街の中央部を見なくてはと思い、街全体の見える高台まで登りつめて、そこで夫婦二人記念撮影をした。そのあと高山病のため行動が鈍くなり、仕方なく広場に降りて行って二人でベンチにかけてポーと途方にくれていた。するとそこに二人の日本人らしい青年が通りかかった。ワラをも掴む心境だった。「モシモシ君たち日本人?」夫が声をかけると、「ハイそうです」と年上の青年が返事をしてくれた。地獄に仏の思いだった。高山病で苦しくてたまらない事情を話すと、薬を飲むことホテルを替えること走らないこと高い所には徐々に登ることなど指示してくれたのでそれに従う。ホテルを替えたらそのホテルは廊下から清冴な空気が入って来て静かな所だったので大分楽になった。この時知り合った二人とは今でも年賀状でのお付き合いが続いている、一人は広島に住む写真家で一人は板画家。今でもあの時助けて貰った感謝の気持は変らない、もしあの時お二人に逢っていなかったら、私たちの運命はどうなっていたか解らない。なぜなら思考能力がなくなっていて、体力も落ち、どうしていいかわからない状態だったからだ。ブラジルに住んでいた時に、このペルー旅行は多くの人や特に画家にとっては、遺書を書き残してから、死を覚悟で行った人もあり、荷物を持って歩くだけの力がなくなってボストンバックに綱をつけて引きずって歩いたと語ってくれたことがある。何がそんなに魅力なのか、私もそれを知りたくて行ってみたくなったのだった。ペルーを語る能力は私には余りないしペルーを画家として書き切ったとは、とても言えないが、赤色の魅力を持った染色や織物、ホークロレの魅力には、若い時は強く引かれるものがあった。


平成18年1
月29日 ペルー取材の想い出3


 
外に出ると、いきなり素晴らしい世界が待っていた。ホテルの裏側のダラダラ坂で仕事に出かける人と仕事を始める人たちの生き生きとした顔と姿を目撃した。それは一瞬の衝撃的な出来事だったので、カメラを向けることはできなかった。肩に重い網の束をかけ、足どりも軽くスタスタ降りて来る男、赤ん坊を背に民俗衣裳に身を固めた若い母親。人通りの路傍にじゃがいもやかぼちゃの篭を置いて、買い手を求めてしゃがみこんでたむろする女達。コトコトとリャマの仔を引いて坂を上がる少年、午前中の高原の空気の中で、色は冴え人々の瞳はキラキラしてまるでオペラの通行人の流れ行く舞台を見ているか、映画のスクリーンの一こまを見ているようである。その人々の重なりあいの素晴らしさ、肩もふれんばかりの一瞬の興奮というものは、次の瞬間夢がさめたようにさめてしまうもので、カメラに収めることは出来ないものだったが、スペインや人種の体臭と共に私の脳裡には染みついている。
 形としては残っていないが、この強烈な感覚は一生忘れられないだろう。この衝撃を受けた事実によって、永遠にこのペルーのことを一生かかって絵にして行く宿命の自分を感じる。この感慨は一体何なのだろう、どこから来るのだろう。本当に不思議な想いである。彼らは、私と同じ黄色人種であり、お互い赤ちゃんの時はおしりに青い蒙古斑点を持つ身である。西洋人をみる時と日本人を見るときとでは明らかに態度が違う。私に対しても大きな隔たりは感ぜず、一緒に地べたに座って休んでも微笑み返すほどの親近感が生まれるのは、本当に不思議であるし、嬉しいことである。


平成18年1月28日 ペルー取材の想い出2


 
私の記憶によればペルーのリマの町からクスコの空港に飛行機が着き、建物まで歩かされた。5、6歩歩いた所でめまいが始まる、大変なことになった。だが取材を決めた以上、何とか予約のホテルにたどりつかなくては。3000メートル以上の高地なので空気が薄く、ホテルのシャワーも3分程お湯が出て止まってしまった。お湯を長く出していると血圧の関係で死ぬ人があるからだそうで、そんなことは露知らず、先に入った私がお湯をほとんど使ってしまい、夫は水のシャワーを浴びることになって不機嫌きわまりない、常備されたたった一つの小さな酸素ボンベは夫に渡してしまい、したがって私は苦しい経験をしてしまった。ホテルのロビーを掃除するモーターの音と洗剤の強烈な匂いで吐き気が続き、夕食はスープを飲んだだけ、いくら無謀とはいえ、もっと研究して来るべきだったが、研究したら怖くて
来れなくなったと思う。日本の旅行者は当時は写真家くらいで少なく、情報も余りなかったが、薬のこと、シャワーのことなど、旅行社は前以って出発する者に知識を提供すべきだ。それでも夜はナイトショウがあり、フォークロレを愉しんで、旅の苦しさ辛さの中にも手応えのある夜ではあった。取材といっても、楽器の名前を聞くでもなく、スケッチするでもなく、ただ五感に訴えて来る魅力に浸っていただけの取材である。ナイトショーの時の写真の夫の顔を見ると、やはり高山病に耐えて必死に表情を作っているのがわかる。ホテルを出るとき、ボーイさん二人に挟まれて写真におさまった私も笑顔ではあるが、やっと立っているという感じである。しかし何といっても、夢に描いた憧れのアンデスならばこそ、死なずに帰ろうと先づは願った。




平成18年1月27日 ペルー取材の想い出1


 
今年も皆様宜しくお願い致します。今日やっとキャンバスの前に座ることが出来ました。アンデスの少女がリャマを抱いて立ち、背景にチチカカ湖を描いて、フワリと葦舟を浮かべたら、急に取材に行ったときのことを想い出して胸が熱くなった。忘れもしない、1981年1月7日憧れのペルーに行き飛行機を降りた途端、高山病にかかり、全く生きた気がしなかった。だが一緒に行ってもらった夫に弱音は吐けず、苦しい苦しい取材となった。こんな時こそと画家魂を発揮させて頑張った。そしてこれは、一生で一番辛い仕事となったが、一番素晴らしい感動の旅だったと今思うので、是非このアトリエ便りのコーナーで話を聞いて欲しいのです。
とても長い期間そのモチーフは描いているが、ことし6月1日から6日まで金沢大和で行われる個展にも再び挑戦して描いてみたいのでこれを読んで下さる方にも私のためにも、その取材の時の写真を載せることにしました、是非見て下さい。


                

平成16年7月15日  絵手紙展を見て


 6月27日まで宮本三郎ふるさと美術館にて先生の娘さんが描いた絵手紙の公開があり、見に行きました。かつて宮本三郎先生が私の少女の時の絵手紙をとても興味深く見て下さったことがあり、それはどうしてだろうと、不思議に思っていたのですが、先生の娘さんである美音子さんの絵手紙の絵と私の絵日記の絵と似ているので、非常に心魅かれそれ以上に何か原石のような雰囲気をそこに感じて下さったのでしょう。先生の私の「少女絵日記」に対するあの真剣なまなざしこそ、私が希望を以って絵の道を進む励みのなった動機なので、その絵手紙展示の催しものは、一つの鍵を解くキッカケとなったと言う意味で非常に良かった。


平成16年6月3日  近頃の嬉しいこと


 嬉しいニュースが二つある。ひとつは5月20日の兄弟会で山中湖のマグ倶楽部というマガジンハウスの研修寮へ行って何と懐かしい自分の100号の作品に会えたことだ。これはマガジンハウス初代社長がお気に入りで伊勢丹展でお買い上げ戴いた作品で、牛にまたがった少女を描いているが、これは「開拓魂を永遠に持ち続ける少女であれ」と自分に言い聞かせるために描いた記念の絵なので兄弟全員この作品と共に写真を撮った。
 もうひとつは、私が帰国後も引き続き画家として南米を題材に作品を描き続け、友人知人を通して文化の交流に貢献、画業も多くの賞をとるなど大きな業績を残したとして、アルゼンチン国家文化庁長官を通し、政権の安定した今を文化元年として発足するにあたり、褒賞してくれることになったのです。記念として作品を10月の式典に向け発送します。認定賞授与には是非出席をとのことですが、夢でもいいから一度授賞式に出てみたものです。いつもなかなか行けなくて今回も無理ですが、万一行けたら10月のアルゼンチンのジャカランダの花のたわわに咲く並木や山や野や街を見たいものです。そうしたら、次に描くものは「「ジャガランダ花咲く街角」ですネ。


平成15年
12月7日  津幡の川村嘉久画伯を尋ねて 


石川県内最年長の洋画家川村嘉久画伯をお尋ねした。何年か前に藤井伸さんの文章を「広報おおしま」などで読み、大島の三原山を描いて島では一寸話題になっている画家ですが、今回ご子息の久志さんより個展の案内が届き早速拝見してきました。画廊中央に三原山の8号が展示され、山の手前に一軒の家が描かれていて、その家が誰の家か、元町のどのあたりが写生地なのかと、興味の一番強かった点を93才の川村さんに尋ねてみると、泊まった宿の離れだとの返事だったので、私の迷いは前より少し解けた感じになり、藤井伸さんにお会いした時の話の種がこれで出来たことになる。どの絵も素直な写実で、人柄の溢れ

                                        

た好感の持てる作品。特に「三原山」は対象を描く喜びの心が出ていて、色調もよく、この一点だけで絵に一生を捧げ他のことは何もしなかった川村さんという人物に対する尊敬の気持ちと慕わしさとを感じた。一生懸命頑張っている父親のために必死で個展開催をプロデュースしている久志さんの姿を見ていると、そのうち、きっと大島にこれらの絵が紹介される日も遠くないのではないかと思えてくる。御自宅にお父さんの川村さんを尋ねてお会いし、アトリエを見せてもらい、大作も見て、絵に一生を捧げる者同志、会えたことの喜びで、二人の間には純朴な心の交流があって、とてもいい出会いのひとときであった。(写真は三原山と波浮港の作品をバックに久志さんと)



平成15年10月11日  ピンチはチャンス


 
帰国してから22年、南米ものばかり描いて来た私はここのところ新鮮に奮い立つこともなく、作品を描くにも目標を失っていた。ところが10月2日に東京から業者の方がいらして、次の展覧会のテーマ、サイズ、枚数、ディスプレーなど細かい指示をして帰られた。画家になって40数年、いつも自作自演で続けてきた自由はいいというものの、この厳しさと苦しさは並大抵のものではなかったのだが、今までにこんな経験は唯の一度もなかった。気楽だったことは良かったが根なし草のようにどこかみじめで不安感があった。寄らば大樹の陰で、やはりそれなりに自分を見極めてもらい見直して貰ったことは、画家として本当に道がつくのだという嬉しさと抱負があっていい。長い不況でトコトン底まできてしまったが、これをバネにきっと次展は成功のカギを握りたい。みんなに認めてもらいたい、新鮮に自分が生まれ変わりたい、一歩上に階段を上がりたい、手応えが欲しい、前面に見えるものが見えて来て欲しい。 ところで次展の私のテーマは「南欧の街角」、今日はさしあたり「海の見える街」と題して、白いかべと赤い屋根して向うに青い海の見える絵を描きます。私の海よ!! 私に返って来い。


平成15年10月2日  追想のレストラン


 
海辺のシーフードレストランでよく食事をすることがあるが、それが今年の秋の素晴らしい画材になるとは思っていなかった、と言ってもそればかりがジャンジャン描けるというものでもない。たった一枚その下がきのデッサンが出来ただけでワクワクドキドキ、久しぶりの喜びを味わっている。それは南仏の港町のレストランだったり、紫色のジャカランダ花咲くサンパウロだったりする訳だが、自分の人生の最高においしい部分は、夫婦の仕事も安定してホッとゆとりの出来たしかもロマンチックな旅先でのレストランのひとこまの追想である訳でスランプの今の私の救いの神になっている。迷い出すと自分らしさを失って、野良猫よりももっと哀れなキョトキョト顔の自分の眼を鏡の中に発見して悲しくて仕方がない。こんな時は、友人の家に行って花模様の美しいカップでハーブティーを飲み、ヨーロッパ調の雰囲気からぜいたくなエレキをたくさん貰って帰ってくる。そして一晩眠ると、次の朝はもうこうして元気一杯絵が描ける。「持つべきものはよき友」なり。


平成15年9月10日  宮本三郎先生のモチーフ


 
画家にとってとても大切なものは情熱だと思う。9月6日また小松市立宮本三郎美術館へ行って来た。先生の絵にも時代に依って相当色々と変遷があり、ちょうど大島にいらした昭和31年頃は抽象画華やかなりし時代に入っていたので、先生も悩んだことと思う。牛は抽象がかって描いていらっしゃるし、一点だけ描かれた水の流れの絵はほとんど抽象画である。この絵のあとで、また具象に戻られた。二紀会会員の方々の作品も同時に展示されていたので見てきたが、力強い具象ばかりだった。先生の絵が最後に飾られた二紀展での絵は「絶筆」と画題が書かれていたと思うが、あの大作の他に2点の未完成の大作も描きかけのまま残された、とのことである。
 作品の裏には多くの悩みや苦労や人に知られていない沢山のエピソードがあると思う。因みに絶筆は花の中に裸婦がうつぶせになっている絵であるが、先生が一番愛した絵のモチーフは裸婦であったに違いない。


平成15年7月5日  宮本三郎先生のふふふふ


 
ニ紀の第十六回展にニ回目の入選を果し、初入選よりもっと明るい喜びを味わいつつ、心せく思いで上野美術館に足を運んだ。しかし探せども探せども私の作品がない。早速先生の所に出かけ、「先生 私の作品がないのですが」というと、「そんな筈はないよ」と答えるのです。次の日また上野に行って今度は一番最後の室から念入りに一つ一つ指を指しながら探して行くと「あった」のです。「石運び」という10号の作品がたくさんの作品の中に埋まって掛かっていました。もう一度先生のお宅に飛んで行って、「先生、私の作品は22号室の三段がけの一番天井に近い所にありました」と報告すると、それを聞いていた先生は、「ふふふふ」と短くお笑いになりました。誰がやったのかは、先生御自身はわかっていらっしゃる様子でした。


平成15年7月4日  宮本三郎先生の親心


 
初入選の時は、文学好きのおばと二人で見に行った。その時、何度も会場を行ったり来たりしても作品が見つからず、サッとカタログをめくっても、自分の作品の展示してある所がわからない。どうしてもわからないから諦めてもう帰ろうとして、一番ステキなサロン風の小じんまりした室に入って行くと、思いがけないことにそこに私の作品があったのである。パリからの出品作品や佐伯米子の作品などと共に特待室と名付けられた特別な室に私の作品「海辺6号」が他の先生方と肩を並べて、小さな光を放ちながら飾られていたのである。疲れ果てて床にしゃがみこんでいた私たち二人は急に元気になって、その室で立ちつくしていた。
 あの日のことは一生忘れない。先生の親心のような広く暖かい心が、この時ほど心に沁みたことはない。


平成15年6月31日  小さな肖像画


 
今朝やっと姪から頼まれていた肖像画が仕上がった。肖像画というものは、一度も描いたことがないが、姪からおねだりされた時に返事をしてしまった。私の描く「アンデスの少女」の顔は実はこの姪の顔からのイメージで描いていたので、あらためて肖像画を注文されると一種の奇妙さを味わった。
 どうしても途中で進めなくなって小松の宮本三郎美術館に行って来た。そうして三日目の今日清々しい風が吹いて画が仕上がった。画というものは企てて描くものではなく、描いてみたら、自らその作品の奥から内なる妙なる光が放たれて来るものなのだ。この小さな肖像画は早速荷物になって今日姪の所に送られる。



平成15年6月12日  宮本三郎ふるさと展を見て


 
何故か自分の中でふっ切れるものがあって、今日はどんどん作品に加筆できた。停滞ムードが180度好転して生命が吹き込まれたような気がする。 6月10日、宮本三郎ふるさと展を見て来たからだ。先生の作品の前に立つと懐かしさと尊敬の念が入り混じって胸に迫るものがある。私が見て思うのは、おろそかにしているものは何もないということ。芸術性と職人業の冴えた作品からヒシヒシとオーラのようなものが私を包みこんでくれる。ロビーのソファーで休憩していると折りしも小松市宮本三郎美術館の学芸員の方がこられたので、共に先生を尊敬する者同志、先生のことや二紀会のことを熱っぽく語り合った。
 それからの私のアトリエの仕事はすべて、まるで先生に見守っていただいてるように迷いがなくはかどった。画家としての幸せとはこのことか、眼の醒める思いがする。                 


平成15年6月1日  幸運のロバ 

 
 今日はめでたい藤井工房のホームページのころもがえの日。
ページを開けば中出那智子に関する資料にもアクセス出来るから、去年までの苦しい不況な私の世界もこのことによって私の心はフワリ上昇気流に浮びあがれるのです。 7月10日から上野松坂屋にての個展に向けて今猛ダッシュで頑張っていて、今日はシチリアのロバを描いている。このロバを描いていると私は正常な自分に戻れるが、時々こうしてロバさんと向かい合い、1年住んだイタリアの空気やシチリアの風を思い出す。 大島にての「ふるさと展」で、最終日までどうしても売れなかった「シチリアのロバ」が売れ、私の固く閉ざされた心は一気に息を吹き返した。
 5月、北海道旅行の折、そのロバを買った方が釧路から滞在中の新冠にご夫婦で会いに来てくれた。サインを欲しかったらしいのだが、肝心の作品を持参するのを忘れてしまったとのこと。私達はまた上野の展覧会でお会いできるかも知れないが、こんなことをご縁に、私は、初秋の釧路を取材かたがた訪問することになりそうだ。 この時からロバは私にとって幸運のロバさんになった。 ちなみに、私の作品が北海道に渡ったのは、たしかこれが2枚目である。

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