那智子のエッセイ①

                                                       
   
大島で宮本三郎画伯に見出され絵の道に入ってすでに50数年、

                         いま絵筆を持ちかえ日々の想いを綴る

 
                     (平成15年6月から18年8月)

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19年2月20日 16才の文集俳句より(7)

    
村々はおぼろ月夜や春の夢
    玉椿くぐって遊ぶ目白かな
    沈丁花香りうすれし雨つづき
    真白に墓標かこんで沈丁花
    かげろうに包まれていし漁村かな
    子等はみなどろを塗りたり春の水

 文集は、ここで俳句を終えている。他のことで忙しくなったのだろう。一瞬の印象を書きとどめる作業は、スケッチする画家の仕事に通ずるものがあるが、俳句の方があからさまに生活の様子や精神が顕著にあらわされ、そして喜怒哀楽が正直に出るところがおもしろい。働きながら、自分の人生を前向きに考えている少女の自分を知って、両親に今更ながら感謝する心で一杯だ。

             


19年2月14日 16才の文俳句集より(6)


   
 俳句帖落して憎き春の川
    一年生遊びし川を振り向かず
    この橋を渡れば続く菜の畠
    負う芋の少し重たき春の橋
    子が去りし岸に蛙の死体かな
    上向きし蛙の腹や月おぼろ

 俳句帖を落した句は島の新聞で紹介されて嬉しかった。川や橋の句があるが、これは疎開先のことかと思われる。大島には蛙がいないが、長野にはたくさんいた。疎開というものがとても思春期にとって大切だったと今思える。

     


19年2月7日 16才の文集俳句より(5)

    
海苔を採る人の疲れて昼の浜
    気がつけば波が寄せ来る足の砂
    島よりも固く咲いてる八重椿
    湯上りのいとこの姿や雪柳
    昼休みつと庭走る猫二匹
    紅梅の庭に湯けむり流れ来る
    磯風に吹かれて二つ冬の岩

 16才の頃、上京して親類の家に泊まったことなど、色々の想い出が懐かしい。最後の冬の岩の句は、なにか人生の前方をみつめている自分の姿が浮び上がって来る。

        


19年2月1日 16才の文集俳句より(4)

    
冬陽さす浜辺の蘭の影長し
    湯場からは椿の小径歩くなり
    啼く鳥の盛んとなりぬ椿道
    立ち並ぶつくしんぼうに春の風
    馬の背に散りそで散らぬ桜かな

 今、75才の自分の手で16才の時の俳句を書き写していると、私にもこのようにうぶで屈託のない時があったのかと思えてなぜか嬉しい。もう一度こうゆう心境になってみたいものだ。そうして昔の大島が恋しい。

     


19年1月31日 16才の文集俳句より(3)

    
こぼれ湯の流れる庭にほととぎす
    釣舟を青く照らせり夏の月
    あじさいや朽ちたる屋根の軒下に
    うぐいすの飛び出て梅の花の落つ
    雪とけて輝き出でし梅の花

 拙い俳句だが、昔の大島のゆったりとした生活の、時間の流れの中で、自然から多くの豊かな美を発見しながら生きてきた喜びが窺える。

     


19年1月13日 
16才の文集俳句より(2)

     湯に沈みうたた寝に聞くきりぎりす
      吾がつくる芋盛り上げて月見かな
      釣橋を渡る日傘や八ヶ岳
      かなかなや夢見る子可愛い鼻の汗
      長靴や帰りの月はまんまるく
      綿雲に紅を残して秋暮るる

 最後の綿雲の句を父に誉められたのをきっかけに、俳句というものに興味を持つようになり、「島の新聞」に投稿。にわかに、俳句をつくる心と、絵を描くときは、共通の喜びと創作のコツがあることに気がついた。

   


19年1月10日 16才の文集俳句より(1)
 俳句は16才の時から始めました。昭和21年の私の文集に書き記されているものを、辿ってみようと思います。昭和20年8月に終戦となり疎開先の長野県から大島の自宅へ帰って来たときは、家族8人ホッとして、どんなに貧しくとも、心の中は喜びで一杯でした。伊豆大島という故郷があって私は何と幸せで、我が家では何と救われたことでしょう。

      お羽黒のとんぼ懐かし千曲川
      病む父の長びき今日は蘭を切る
      一筋の淡き煙や冬の山
      野いちごの赤さころげて水の底
      とんぼ釣る子に浜木綿の花白し

      


19年1月5日 新年にのぞみて

     
 新年おめでとうございます。皆様今年も宜しくお願い致します。お蔭さまにて画業50周年記念油絵展を大島の藤井工房にて開催することが出来、高校時代の柳瀬先生、七島新聞の配達をしている花子さんにお会いできたりして、親交も深め、意義ある時を過ごし、藤井さんには心から感謝を申し上げます。
 お正月と言えば、私の俳句の中で一番お気に入りで、しかも皆様からも好感を持っていただけた句がありますので御紹介します。
               
        若水に十八の手を浸し見る

顔を洗いに行って自分で汲んだ水に働いてごつい手を浸して眺めたときに、とても精神的な気持ちが溢れて来て夢と希望に胸が高まる思いを経験したものですが、全く物の少ない時代で、電話もなければ、電灯も夜10時で消えてしまう時代でしたが、何故かl心が新鮮な時代した。あの頃に負けないように、何時までも若々しい精神で新時代をのり切りたいと、新年に当ってつくづく思います。

18年8月14日 展覧会の御礼
無事に展覧会が終り、めでたしめでたしでした。初日から15号の「ゴゾ島の船たまり」など三点が売れ、出足から上々でした。暑さと、テレビで高校野球があったりの状況の中で、パッタリ客足の途絶えることもしばしばありましたが、手みやげ持って尋ねて来て下さる友人たちに、どれだけ励まされたか知れません。それに
、ブラジルの日系紙に早々と展覧会前に記事が出て、そのことが日本に情報としてもたらされ、その外、中国のアーチストのツアー、フランス人、ドイツ人など見て下さり、マルタ島は、とても知られているのだなアと感じました。とにかく、明るく楽しく、画面に透明感があり、画題にまで気を配ったことが良い結果を生んだようです。とにかく、次展に自分の進むべき道をつなげることが出来たという満足感で一杯です。ご支援下さいました皆さまに感謝を申し上げます。


18年8月14日 第19回伊勢丹展開催

 私の絵の担当の方から電話があり「先生と知り合えてから20年になりますネ」との優しい言葉を貰い、アッという間に過ぎた年月を思い、胸が熱くなった。1回やるのでさえ大変なのに、19回も重ねて来たのである。目の前の一歩を大切にして、一回一回に全力を注いだことが、その開催の継続を可能にしたことになったのだ。6月に金沢展があり、2ヶ月間しか制作時間がない苦境の中で、或る朝、新聞を読んでいたら「ピンチこそチャンス」という言葉が目の中に飛び込んで来たので、その言葉を信じて、ひとつことに集中し、全力を注いだ。結果はどうあれ、その間は迷いとか悩みはなく、ただ描くというただ絵描きの執念だけが自分を支えてくれて、グイグイ前に進めた。二年前に、旅行に行けなくて困っていたピンチの私を救ってくれた妹のおかげで、地中海のマルタ島の取材の、何となく雨にたたられて鬱屈した気持も、無事に新作31枚を描き上げた現在は、雲間から朝日が射してくる思いである。所詮、絵描きは元気で描けるうちが華なのだ。一週間、親しいファンの方との展覧会場での再会が楽しみである。


    特集 父の俳誌「たこ壷」を語る 1~22 へリンク 18年4月3日から8月4日までの通信記録

              芸術家を目指した父長島定一(俳号悠々子との想い出を綴る

                               スケッチ・中出那智子

18年2月12日 トリノオリンピック開幕
 
トリノオリンピックが開催された。ミラノに一年住んだことがあるので、セレモニーをテレビで見て、イタリアの芸術性をさすがだと思った。選手たちの入場は、参加する90ヶ国の人々の、心からの笑顔がステキだった。日本の若い選手たちも、実に爽やかで堂に入っているので、ああ時代変ったなアとつくづく思う。壇上で突然語り始めたジョン・レノンの妻オノヨーコさん。身体を二つに折るようにして力を入れ「イマジンピース(平和を想像してみよう)」と切り出した。白い帽子に白い服、彼女の姿とその済み切った声の詩の言葉は世界中の人々の魂に響いた。「10億の人が平和について考えれば、平和が訪れる」「そんなに頑張らなくてもいい。ドミノ倒しを思い浮かべてみて。メッセージはあなたが思うよりも速く巡っていく」「今が行動を起こすとき」最後は今も歌い継がれるジョンレノンさんのこの一節で締めくくった。「すべての人が平和に暮すことを想像してみて」一瞬の静寂のそしてひときわ大きな拍手がスタジアムを包んだ。聖火の点灯のシーンの素晴らしさなどと共に私には忘れられないセレモニーだった。

平成18年2月5日 アンコさんがいい
 
今朝片山津のチラシを見ていたらアンコさんの写真が出ていて「伊豆大島世界ラン展2006」第51回椿まつり、と旅行の宣伝文句が出ていた。私にとってこれが今春一番嬉しい、春到来のチラシとなりました。大島といえば「アンコさん」、私もかつてアンコさんだったので、この頃はどんなアンコさんがいるだろうかとか、色々夢に描いてみるのです。もし本当に美しいアンコさんがいたら、完全にまた大島に観光ブームが来ます、ランよりも椿よりも先づ魅力的なものは生きていて話も出来て、友だちや恋人になってくれることが出来るのはアンコさんです、各観光スポットには、アンコさんを置くべきです。10人のアンコさんの可愛いらしい人がいたら、それこそ私でさえドキドキしてきますから、みんな憧れを抱くこと、まちがいなしです。そうしてアンコ踊りを、船が入港の時、出航の時など頻繁に踊るべきです。イスタンブールで、観光船出港の折に、何気なく桟橋見たら、お見送りの舞踊団の方たちが男女スクラムを組んで踊っているのが見えました。そのことがあってからイスタンブールは私にとって忘れられないものとなりました。アンコ、あんなに人間の五感に訴えるものはない筈です。

18年1月23日 「中出良一を偲んで」のリサイタル

 新年おめでとうございます。皆さま今年も宜しくお願いいたします。昨年11月27日は、北陸片山津温泉にて「中出良一を偲んで」と題してリサイタルを致しました。幼い時、彼が通っていた保育園の子供たち50人の参加で無事「さくら貝」を熱唱し、そのキラキラ輝く瞳の子供たちから、どれだけ感動を与えられたか、計り知れませんでした。この歌を先生方が園児に教えるにあたり、先ず1番から3番までの歌詞をおぼえてもらうため、紙芝居を使って、物語風に説明して覚えさせたそうで、その協力して下さった熱意と愛情と辛抱に、頭が下がる思いでした。子供たちは感情豊かです、なかにはこの曲に感動して泣き出した子もいたそうで、私としては抱きしめてあげたい気持です。東京からは良一さんの弟の参加で「秋」をソロで歌ってもらいました、兄の曲を弟が歌うということは、とても素晴らしいことだ、と好評。名古屋から妹も駈けつけ、めでたしめでたしでした。

       
                                         

18年1月18日 ララへ
     
ララお前は可愛かったネ 食事のときは待ちきれないで いつも足踏みしていたネ
     18年間私を守ってくれてありがとう 
     最後にお前は食べる力がつきて紙風船のように軽くなって眼を閉じたネ 
     今日はお別れでつつじの下に埋めるけど安心してお眠り 
     今度は私がずっと見守ってあげるからネ

                             
     
17年8月23日 「あゆべよ」を読んで
 
文学界9月大島を題材とした青山光二の「あゆべよ」を読んだ。「あゆべよ」とは一見何のことかわからない言葉だが、大島の方言で「行きましょうよ」という誘いの言葉で、小さい時には毎日使っていた言葉なので、島に住んだ人だけに共通の懐かしさを味わった。「あゆべよ」の題名に誘われて思わず一気に最後まで読んでしまった次第だ。乳ヶ崎の蔭なる岡田村とか、文章のあちらこちらに、島を彷彿とさせ箇所がちりばめられ、作家が昭和初めの大島に訪れて経験した、若き日の恋物語を綴ったこの中には、更に六踏園なる大島農場の名前も出て来て、全く忘れていたその名前に思わず大島の蔭の部分の青白い光を見る思いがする。大島と言うのは、椿油と三原山とアンコさんだけでなく、その他に何かこう、椿の木蔭の更に向うの突当りにひっそりと、吹き寄せられた海くず(藻屑)のような、そうですネ、つまり文を構成するのに必要な、あくような、訪ねて行くのがためらわれるような、ひそみに部分があって、それが文章の隠し味となって、大島の自然と混然となり、匂いや色彩を分担しているのですネ。藤森成吉の若き日の悩み」を青春期に何度も読んだが、あの文章を思い出します。まさに「あゆべよ」言葉どおり、ゆったりと、時間や仕事や、いわゆる世間の難しいことに関係なく、黒潮にかこまれた愛すべき大島の姿と、昔の生活とが見えて来ます、とても懐かしいものを読みました。その土地に今も三原山があり、椿が咲き、人々が住み、魚が泳いでいてくれることは、本当に幸せなことです。


17年6月8日 木村五郎の本を読む
 今まで解らなかった彫刻家木村五郎に就いて書かれたこの本は誠に要領を得ていて一度にすべてのことがわかりました。本全体の装丁、千田さんに執筆を頼んだいきさつ、その他「これは彫刻になっております」という面白い題名、表紙カバーのデザイン、口絵写真、本文中の作品の数々の写真、大島に関する写真、何も彼もすべて驚きと関心を以って見ました。論点の彫刻と非彫刻については、とても興味深く読みました。高村光太郎と石井鶴三に彫刻として認められています。読者にとっても一番知りたいことはこのことでしょう。昭和6、7年頃の作品はみな素晴らしく大好きなものばかりです。藤井虎雄さんが、どうしてこれ程木村五郎に対して情熱を持つのかわからなかったのですが、この本を読んですべてがわかりました。父上が木村五郎から彫刻を教わったこと、父上が一途にあんこ人形を彫り続けて二千体遺されていたこと、亡くなる一年前頃より虎雄さんが、彫る父の工房であるみやげ物店に行っていたこと、そして自分も父上亡きあと、その遺志をついで、仕事をやろうとしたことなどの事情があって、こつこつと資料集めをしたことなど、それらが今こうやって立派な本になり世に出ることは、本当に嬉しいことです。 
この本は彫刻家にとってはとても面白い本です。特に第一章の最後に書かれた「その純粋で不器用な生き方は、時を経ても風化しない不思議な魅力を持っています」という箇所は、ピッタリ木村五郎の魅力を適確に言い切っていると思います。


平成16年8月11日 胃カメラ体験
 夏はドカンドカンと大砲の弾丸の降るように強烈に押し寄せて来た。7月の個展の苦しかったこと。CD出版。絵皿100枚の注文制作、それのほとんどがやり直しとなった。市の健康診断では精密検査が必要となり、万一にそなえて、心の準備までして出かけたが、胃カメラ飲んで悪い所はひとつもなく、昨日無事帰宅し、今日
はやっと家の中を掃除して少し人間らしい気持に戻れた。入院が必要になるかも知れないと思い、暗くて重い気持で病院の入り口をくぐった時の気持は絶対忘れられない。事なきを得て、家路に向う道すがら、夏の陽に映える家々の屋根の美しかったこと。人々は玄関を綺麗に飾り、みんな幸せそうに暮している。それを見たとき、「ああ私も幸せに暮らそう」と思い、5匹の犬と2匹の猫の待つ吾が家の玄関のカギをあけながらホッとして、古くても家のある幸せを感じた。迫るお盆、夏祭、諸外国での展覧会に向けての作品の荷造り。目の廻るような忙しさの中、ふと気がつけば、午後4時の室の明るさがいつもより暗い。かすか乍ら季節は変化を見せ始めたのだ。大島の夏の海も8月15日から海の光線がガラリと変り、くらげが出没して泳げなくなるのも、この頃の現象だったことを想い出す。

7月29日 いとおしく思う
 暑いけど、食べものも真剣に考えて最大に今日という日を大切にして生きています。今日もし上手に生きられなければ、以後も上手に生きられない訳で、今日のスケジュールというものは全く動かすことの出来ない重要なスケジュールであり、うっかり風邪をひいたり腹痛を起したりは絶対許されない。5匹のワンちゃん2匹の猫ちゃんも真剣に生きています。自分の家族のいとおしさ、自分の生命、自分の仕事、自分の家がこんなにいとおしいと思えたことは今だかつてない。そんな朝のひとときを夏の窓辺で味わっています。


7月28日 絵の売れないワケ  
 
今回の地元展では色々と世相の変化を読み取ることが出来た。私自身は一点も売れないということは絶対避けたかったので、水彩や0号、サムホールの魅力的な小品を飾り全力を尽した。私の個展の前は「世界の板画展」だったが一枚も売れていなかった。私は販売のベテランである友人に電話をして聴いてみたのだが、今は、お客様の関心が絵から遠のき、皆自分の年金のことや老後の方に関心が向き、お金の使い方にも特長が出て来ているらしい。私の個展で顕著なのは絵をやっている女性の方々が見に来るようになったことであ
る。「私も絵をやっているのですよ」とお客様がどんどん遠慮もしないで言う、変な時代になったものだ。油絵は遥か憧れる存在だったものが、みんな自分で絵を描くようになり、自分で楽しんでいる。プロの私より精進しているかもしれない眼差しである。ちなみに、ニ紀会に展に出品している石川県の女性は何と驚くなかれ22人である。


7月27日 絵を描き続ける
 中出那智子という絵を描く樹が、今、倒れないように必死で生きています。不況続きなので用心して生きては来たが、7月8月のこの夏の暑さは油絵を描くにはもってこいだが、経済の危ない者にとっては泣きたくなる時期である。体調が崩れたら一度に何も彼も立ち直れない程、困るのでまづは毎日しっかり食べて精神旺盛に心がけている。私の父は絵描きに私をしたくないと思った時期があったが、この絵を描き乍ら生きて行くこ
との辛さを味わうと、父の思っていたことがよくわかる。ほとんどの画家は他の事で生活を安定させ、その外に芸術の道を極めようと絵を描いているのだが、そのほうが正しかったかなアーとも思うが、それはその人その人で生き方が違って来るだろう。ともあれ、ある人が「中出さんを見ていると古き良き時代の三岸節子を見ているようだ」と言ってくれたので、一寸くすぐったいがその言葉からエネルギーを貰ってとりあえず今日のところは元気で絵を描こうと思っている。


7月24日 中出良一作品集のCDついに完成
 アトリエ便りや一口エッセイを書いて泣いたことなど一度もないが、今回ばかりは思い返して泣けて泣けて仕方なかった。8ヶ月かかってやっと念願のCDが出来上がったからだ。その間、自分は無謀なことをやってしまったのではないか、という自責の念と本当に出版できるのだろうかといういい知れぬ不安に襲われ、そのために絵の制作に身が入らず、夜中の2時には目が醒めるという困った事態にまでなってしまった。しかし無事出来上がってしみじみと手にとってみると、自分の人生の半ばでパッと一輪の花が咲いたような嬉しさだ。他の人のCDと並べて比べてみたり内容を何度も味わってみたりして、子供が生まれたのと同じ位の幸福感だ。第一声は名古屋の義弟からあり「とてもいいねエ、雑音が全くなくて本当にいい」と言ってくれた。本当に私のだけでは出来なかった。何度も諦めかけた時、蔭でじっと支えて信じて待っていて下さった藤井工房さんがいらしたからこそ、トコトン最後まで頑張れたのでした。それに担当の営業マンも東京まで通って著作権の問題などを辛強くやってくれて、一度もグチを言わなかったことは私も見習いたいと思いました。彼の最初の印
象で27歳位のひ弱な青年に見えましたが、出来上がって我が家の玄関に納品に訪れた時は、自信と誇りに満ちた立派な営業マンに8ヶ月の時を経て見事に変貌していました。たぶん彼はこの仕事で色々のことを勉強したことでしょう。「自分の記念すべき仕事だった」といって5部買ってくれました。メデタシメデタシ。今夜からぐっすり眠れます。

7月15日 小松大和展終了感想記
 7月7日から13日まで毎日会場に通い、お客様と話しが出来る2年に1度の貴重な再会の感激を味わった。しかし、いつもと何かが違うのである。今迄作品を買って下さった方々が、定年その他の変化もあり、私自身の絵も完成度の高い絵を展示しているにもかかわらず、世の中が美術の生活でも変りはじめて来て、現時点では結論は言えないが、東京でも大阪でも売れないらしく、美術界の転機や不景気のあとに引き続き、ガラリと晴れ渡る雰囲気がなくて、絵かきにとっては苦難の時代だが、ともあれ前回7枚売っているので今回は小品ながら何とか前回を上回るよう努力し、終わった時にはクタクタで2日間寝込んでしまった。しかし不思議なことに嘆くひまはない。絵皿100枚の注文があり、夜も昼も絵皿を描く仕事に没頭しています。すべてはそのあと考えます。


16年5月31日 さくら貝の曲はあのままがいい
 
先日バリトン歌手の中村義春さんと電話でお話する機会があった。「さくら貝」の曲を今風にテンポを速くして、踊りに使いたいという話があるのですが・・・とお伺いすると、彼は「あの曲はあのままが一番いい状態ですよ。中出良一君もそう思っている筈です」と答えて下さった。さすが中出の親友でもあった彼は正しい見解を今も尚持っていて下さるのに驚いたり感心したりした。世相に流されぬまともな意見は尊い。うかつにもアレンジして人に聞いてもらうチャンスを増したほうがいいのではないか、と思うようになっていた私は心から自分の軽率さを恥じた。そう言えば加賀市の竹の浦館でフルートコンサートを演って下さったフルーティストの村野君も、「中出先生の曲はそのままが一番きれいです」と言って下さった。彼も若いのに、心の落ち着いた迷いのない考えも持っているので、これもまた中出良一の真の共鳴者である、と再認識した、頼もしい限りだ。ちなみに「中出がフルートの曲を書いたのは、村野君の要望があったからこそ生まれたものである」というエピソードを先日のリサイタルにて聞いてこれはこの一口エッセイで是非公開したいと思った。

16年5月30日 「さくら貝」この一曲
 
中出良一はこの「さくら貝」の曲を生み出すために運命に導びかれて大島に渡り、弘法浜でたくさんのさくら貝が波打ちぎわに打ち寄せるのを見て感動、それから曲想が湧いて、何年かのち、横浜にて作曲。横浜から更に飛躍しようと海外に出ましたが、結論は日本歌曲こそ我が進むべき道と悟り、更に作曲に没頭します。なかでも「さくら貝」は一番愛する曲でした。
 ミラノでスカラ座通いをするためにアパートを探していましたが、日本人は赤軍のイメージがあるため、どこでも断られました。「僕は赤軍ではありません」そう言った彼は、おもむろに「さくら貝」の載った音楽の教科書と、一枚のレコードを差し出しました。とりつぎの間に入った日本人学校教師の青年は「おお!あなたはあのさくら貝の作曲者ですか、僕はギターをやるので、この曲は毎日弾いていました。それに日本ではラジオのFMでこの曲はよく流れてましたよ」。その時、中出良一はどんなに嬉しかったことでしょう。きっと、目は輝き、しょげた気持は吹っ飛んで、天にも昇る気持だったことでしょう。その後、ミラノでの生活が快適だったことは言うまでもありません。まさに「さくら貝」は私たちを救ってくれた宝の曲です。


16年5月10日 新聞に記事が載ったので
 
中日新聞5月9日付(ざっくばらん 加賀を担う人たち)に私の記事が載りました、とてもいい記事になりました。
                 
  洋画家中出那智子さん まばゆい光放つ作風


16年5月9日 中出良一作品のフルート演奏会
 
100人以上の聴衆を得て、無事に夫の作品集のフルートコンサートは終わりました。春の日の、ニセアカシヤの白い花が薫る瀬越という町での、いとも和やかでふれあい溢れる感動的な会でした。演奏する村野君は、演奏会の1ヶ月前に我が家を訪れ、中出良一の雰囲気を想い出しながら庭を歩き、演奏会の前日にもう一度訪れて、師である中出良一との心の交通を感じとって演奏会にのぞんだのでした。十六夜(いざよい)は特に好評で、ほとんどの方が胸を一杯にさせながら、眼をうるませていらしたので、こんな感動的なコンサートは久しぶりのことでした。そうして、来るべき20周年(没後)の記念演奏会の夢が私の胸に浮ぶのでした。(フルート村野訓之、ピアノ村野真由美)

16年4月25日 
 
シチリア島のとなりのマルタ島は実に見事に美しく、その要塞都市にピッタリで、旅人の心に語りかけてくるものがありました。5月1日から地元加賀市の瀬越という所で「マルタ島紀行水彩画展」を開催のため、今自分の能力を力いっぱい振り絞って水彩画を描いて準備中。昨日は夫(故中出良一)の同窓会の開かれている山代温泉までタクシーを乗りつけて、夫が作詞作曲した「さくら貝」のフルート演奏会のことと併せて、私の個展のことなどを、宴会の前に3分間ご案内のあいさつをして来ました。42名の宴会の席上で「皆様に一人でも多く見ていただきたいと思います」とお願いしましたが、何だか、こんなに頑張っていいのかなーと思ったのが今日の私の感想です。

16年4月23日  
 
マルタ島へ行って来ました。1年ほど前から観光スポットになっていてカラフルな漁船と紺碧の海と空が印象的です。マルタ島はイタリアだと思っていましたが、マルタ島共和国です。街ですれ違った仔馬の馬車が真赤な手編みのレッグウォーマーを履いているのを見て、とても心暖まるものを見た喜びに、私の旅情もひときわ盛り上がるのでした。 
マルタ島の風景を描い水彩画展が地元加賀市で5月1日から開かれます


16年2月22日 アンコシリーズ①
 
版画家永田米太郎さんの個展開催おめでとうございます。「大島」は小誌ながら、これ一冊読めば大島のかっての姿や実像があますところなく解り、素晴らしい本だと実感しました。板画も力強く当時のおもかげをそのまま彫り上げています。昭和29年頃大島に数回渡島していらっしゃる永田さんのお顔やお姿は、私もきっとお見かけしている筈です。背の高い方だったように、おぼろながら面影が浮かび上って来ます。「乳ケ崎と風早崎」スゴイですネ「岡田港」もいいし、「さいそくまげ」など大好きです。これらの板画は一度はどこかで見たことがあるような気もするのですが、ほとんど店頭に絵葉書として並べられたことはなかったと思いますネ、岡田は頬がポッテリとした美人がいて、野増の美人は不思議なことにとてもエキゾチックでした。元村の美人は、何というか総合的に整っていて、その美しさの要素は何からなにまで、内容がおっとりとほのかに香るような、人柄がにじみ出るような美しさで、私の眼から見ても、とても見とれる位美しかったので、大島がもてはやされる時があったことは、大いにうなづけることです。
 岡田の清美さんは目がぬれたような黒目で肌が真白、頬はマシュマロのように柔らかで、ものすごい美人でした。私と大島高校同級生で卒業後は三原山を経て元町港まで、よく登山客を案内していました。その人の写真はどこかにあるでしょうか?髪の毛があり余っていて、ポッテリと背後に束めて重そうでした。くちびるはバラの花のようでした。


しらいみちよさんのさくら貝(平成15年11月2日)
 
待ちに待ったしらいみちよさんの「歌と語りの夕べ」リサイタルが加賀市で行なわれた。黒猫さんのとり計らいで歌って下さることになった夫の「さくら貝」の曲をしんみりと聴く。電子ピアノを前に美しく語るように囁くように、心の隅々まで染透るように歌って下さった「さくら貝」は、今まで聞いたこともないほどの優しくて可愛らしくてジーンとくるさくら貝だった。しらいさんも、「こんな美しい曲があるなんてまるで知らなかった、今後も全国で歌ってゆきたい」と言って下さった。彼女は歌手であるばかりでなく、自然環境のことなどにも心を砕き、頼まれれば日本国中をイベント行脚をしているのだ。ただの歌手だけでない所が更に彼女の知的魅力になっている。彼女との幸せな出会いを記念して一人ワインで日曜の午後を乾杯していると、し
らいさんを乗せた飛行機が私の頭の上を通過して行った。しらいさん、黒猫さんありがとう さくら貝はこれを機にもっともっと歌われるようになるでしょう。

                

小さな個展
 
本陣不動産とタイアップしてこのたび地元で個展。アッという間に話がまとまったので案内状の印刷間に合わず、本人はテンヤワンヤ。従業員の方や社長さんたちが、ナッチーヒルズの花火大会の折、個展の話は見事に一度で決まって開催されたのだった。ドカーンと大空に打ち立てた看板は豪快そのもの、これは社長さん私に対する暖かく大らかな心の表れだと思う、私の原画を元にしてデザイナー担当の方がこれを造って下さった。
こんな大きな看板を我が生涯で一度やってみたかったので、喜びがいつもより大きく、エッサエッサと絵を運ぶのもちっとも苦痛ではなかった。私の絵はもうみんな知っているので見に来て下さる方はチラホラだったが、社長室には一枚も絵が飾ってないとかで、社長さんがベネツィアの絵を買って下さって、このことだけでも人生淋しいだけではないと感じた。従業員の若い青年が、社長の買う絵はどれだろうと、前以って三人で興味を持って下見に来て、しきりに見てくれたことはジーンと来るほどの嬉しさだった。


初入選の絵(平成15年9月27日)
 
23才の時、宮本三郎先生との出会いがあり、二紀展への出品をすすめられた。5ヶ月かかって大島を題材に5枚の作品を描いて送った。そのうちの「海辺」6号が初入選、その時の喜びと感動は終生忘れることの出来ないものだった。その絵は他の大きな作品と並べることのできない小品だったので、先生のお智恵で特待室という室に飾られ、佐伯米子の花の絵やパリからのゲスト出品に混ざって、私の絵がささやかにそして何のためらいもなくサラリと飾られていた。陽に灼けた少女と少年が小舟をバックに頭からタオルを被り、とうもろこしをかじりながら憩っているこの絵の中から先生はこれから伸びようとする一つの芽のようなものを感じとって下さったのだと思う。 この作品の存在をファンの方から今日質問されたが、実はある紳士が自殺を思い立って大島に来られ、南島館に泊まることに依って死を思いとどまり、御恩返しをしたいということで、この「海辺」の作品を買って下さった。お名前を保存しなかったために絵の所在は全くわからない。これは40年も昔の話であり、そして、その絵の少女は私であり、少年は弟である。

北海道3泊4日の旅(9月13日)
 
「シチリアのロバ」お買上げの北海道の高田さんに御招待されて、北海道へ旅行してきました。摩周湖や阿寒湖は初秋の野草に囲まれて潔らかでした。名もない一つの灯台岬を尋ねた折、何にも怖さというものを知らない仔鹿が現われて、手も触れんばかりの処で低木の芽を食べているのです。そんな時に限ってフィルムがなくなっていたりして、がっかりです。自然の中で更に自然を見た感じでした。
 高田さんの奥様が中出良一作曲の「さくら貝」をギター用に編曲して下さって、弾き語りを私の前で歓迎の意を込めて歌って下さいました。しらかばに囲まれた民宿の一室は湖に面し、歌うほどに美しい声は冴えて、私を感動させました。一枚の絵が私達を友人にしてくれて、そのうえ、主人のさくら貝が遠く北海道でこうして歌われていることは、何と私の人生において、慰めとなり励ましとなったことでしょう。そうしてこれを藤井工房に報告できることは本当に幸せなことです。

ブラジル画家修業の旅⑦(8月24日)
 
夜中に奥地より出発して、サンパウロ郊外スザノ北部日本語学校へ無事着いた。10時間以上のトラックでの移動でさすがに若かったとはいえ疲れのあまり顔がひとまわり小さくなった。次の日から早速入学式が始まり、父兄の代表の方がガス台とベットの10回払いの購入を世話して下さった。日本語を習う生徒は80人、鐘を鳴らして朝礼をし、勉強の時間も二人で無事にこなした。こうしてブラジル生活の第二幕がはじまったのだ。
 絵も描いたには描いたが、サロン聖美や文協展に出品するのがやっとの状態だった。この時点で生きて行くことの苦しみを味わった。60キロ離れたサンパウロ市までの出展作品は、地方を巡回していらしたキリスト教牧師の宗像先生に運んで貰ったが、若し宗像先生との出会いがなかったら出品は不可能だった。宗像先生も私を支えて下さった方の御一人である。

大島に生れて良かった(8月12日)
 
今年の12月に女流画家だけの作品集が美術年鑑社から発行される。その経歴を今書いているところだが、自分で書くととてもまとめにくいが、今、年鑑社が改めて用意して届けてくれた経歴文を読むと、とてもスッキリしていて解り易い。私にとってふるさと大島はとても重大なポイントである。牛のスケッチに来島された宮本三郎先生との出会いがきっかけで師事することが出来たので、大島がなければ、私は先生と出会えなかったのだし、大島あってこその出会いで、とても自分の生れ故郷が大切に思えてくる。その背景として、父母が当時旅館をやっており、昭和7年頃に先生御夫妻がお泊りになったことがあるので、その旅館「南島館」を頼って、また昭和31年に来島なさったことを思沁みて解ってくる。私は本当に大島に生れて良かった。

藤井工房との出会い(平成15年8月9日)
 
出会いと言えば色々あったけど、去年の7月、大島での兄弟会の折、島の観光パンフレットを見て藤井工房なるものを知った。船が出るまでに少し時間があったので、藤井工房に寄ることになり、兄弟ゾロゾロお店の中に入って行った。外観はミドリの丸屋根で、入り口も外国の昔の建物のように少しあがって入って行く形式でなかなかシャレているが、島の人から言わせると、それが入りにくい原因らしいが、中にいる藤井虎雄さんがとても気さくで、純真な人柄と知れば、いつも寄る人はたまらない魅力を感じている筈だ。この藤井さんが私に「ここで展覧会をやってください」と、一番簡潔にして真実ある言葉を吐き出して言って下さった時はビックリした。その時から正真二人は大島という郷里を仲介にして、またお互いに父親を尊敬しているという共通点のために生涯を通じての信頼し合い協力し合える同志のような存在となった。もともと自由が好きで、少しでも束縛があると息苦しくなる性質の私だが、ここに来て寄る年波と自分の画の道の協力者欲しさに、ついつい甘えや寄りかかりが出来てしまって、申し訳ないことばかりだが、今年の1月から4月上旬にかけてのふるさと個展開催のロングラン中に思ったことは、驚くばかりの藤井工房の力が発揮されて何と20枚もの絵が売れ、絵を描いて生活している私にとって、恐ろしい不況から思いがけず脱出出来た。
 工房の中で見た色々の心暖まる彼の作品の展示やホッとする飲みものなど、大島にとってなくてはならない観光の大切なスポットになって来ている。大島に行く人は必ずここに寄って大島に関する芸術家たちの足跡を感じて下されと思う。私が立ち寄った折、アンコ人形の素彫りを教わりたい若者たちが何人かテーブルに寄って眼を輝かせて彫っている光景を垣間見たが、世の中色々あるけどホッとする空間がここに展開されていることを想い、これは私のよろこび、藤井さんのよろこびでもあり、大島の先人たちのよろこびであることに間違いない。支庁に勤めていた彼がある日ふと自分の生き方の選択肢として、この工房建設を思い立ち、退職してそれを実践した行動の美学こそ素晴らしいと思う。家族に支えられて彼はひたすら島の民芸や美術にかかわる調査や資料を集め、ただの一日も無駄にせず自分を捧げている。彼はパソコンを酷使してたった一人で店番から資料作りまでやっている、私とは全く思いは一つでも性格は正反対で、見ていれば見ている程感心する。おそらくこれで一番相棒としてバランスがとれているのだろう。そんな訳で、私の資料もいずれ藤井さんに送ることになると思う。多くの人々の多くのご支援をどうぞ宜しくお願い致します。


ブラジル画家修業の旅⑥ 弓場農場を出るの記 (8月3日)
 
いつしか私たち夫婦には2年半の時間が経とうとしていた。そうしてこんな生活をしていていいのか、という考えが頭をもたげて来ていた。これでは駄目だ、まず自立しなければいけない。そう思うと、その考えがグングン大きくなり、遂に私たちは弓場農場を出ることを決行した。恩を感じながらもその恩は自分たちがきっとそのうち仕事の上でお返ししようと思った。近くの友人宅に一夜の宿をとり、夜明けと共にノロエステとの別れを告げた。目的地スザノの地まで11時間の長旅で、しかも緊張のあまり憔悴しきっていたが、
心の中は新たな希望に胸はずむものがあった。道すがら見た美しいブラジル奥地の風物がこの時私の脳裡に焼きつけられた。山や谷、こぶ牛の群、砂ぼこりの道路、ちぎれ飛ぶ雲々々、青空の深さ。ああこれがブラジルだと心の中で叫んでいた。私たちがブラジルで初めて口を利いたブラジル人は黒い肌をしたこの時の長距離トラックの運転手だった。

ブラジル画家修業の旅⑤(8月1日)
 
その頃、ブラジルに住んでいると、とかく画家にとって気になる出来事はサンパウロで開催されるビエンナーレであった。しかし私の絵はビエンナーレには全く向いていないので、ただひたすらに自分の世界を大事にすることに方針を決めていた。ビエンナーレで大賞をとった友人がサンパウロにいたが、彼の作品は動く絵画で、見る人が作品の前に立つと、作品の方で方向を変えたり動いたりするのだった。絵画の世界といってもいろいろで、自分の世界とは全く違う世界があるという事を認識することは大切だけれども、だからといって誰もがその世界にまどわされてしまうのは危険である。しかしビエンナーレ展を見るという経験は、今想えば何にも勝る勉強であり贅沢であった。

ブラジル画家修業の旅④(7月31日)
 
1967年、聖美展出品の100号は少年を乗せた白馬が原始林の中を小川の流れに足をひたして歩いている作品だった。鉱山動力相夫人がそれを御覧になって、「この作品はブラジル奥地の白馬に乗って恋人を探しに行く伝説とそっくりだ」とそのイメージに感動してお買上げ下さった。小金賞獲得とお買上げの二つを一度にせしめた私はまるで夢を見ているように幸せだった。幸せの方から私に体当りでぶつかって来る、という感じだった。3年目はブラジルの花の咲く木「ジャカラング」を描いて、サロン文協展でおなじく小金賞受賞。ブラジル1年目は日本に居る時と同じ描法で描いていたが、2年目、3年目は一気にブラジルの大地や太陽や人々に負けないためにも、私なりにひらめいて或る方法を用いた。それはブラジルのレンガ造りの家の職人たちが最後に壁を塗る時、白いペンキの中に砂のようなものを入れるのを見て、これをやろうと試みたのだった。それが見事的中して、重厚で温度を感じさせるようなマチエールとなり、見る人の心を満足させた。このマチエールの大切さに気付いた私は、まさにこの成果で幸運の人となったのである。
 

ブラジル画家修業の旅③(7月30日)
 
 とにかく、何が何でもブラジルに着いた印に絵が描きたくて、白馬に少年と少女が乗っている20号の絵を描きはじめた、1966年4月のことである。地塗り、下塗り共に強烈な太陽のお蔭で速やかにはかどった。訳5ヶ月程で作品が完成し、早速日系人の公募展に出品して大銀賞を獲得した、まさにブラジルの大地に自分の足がついたという気がした。日本から来た36才の女性の絵かきを日系人社会の人たちは喜んで迎え入れて下さった、このことがどんなに嬉しかったことか。画題はたくさんあったし、絵具は弓場さんが買って下さった。サンパウロの画展に出すのに、車で10時間の道のりを、農場のトラックが快く引き受けて下さったのだ。画展では2階の一番正面の中央に展示され、やや小ぶりのその作品は臆せずメンバーの人たちの作品と仲良く並んでいた。「よしッこの調子だ、私はブラジルでやって行ける!」そう心の中で叫んだ。
そうして、早くも次なる来年の作品のイメージが帰途の折に浮んで来るのだった。

ブラジル画家修業の旅②(7月28日)
 
農場に大工さんが一人居て、イーゼルを作ってくれた。そのイーゼルはとても頑強で、100号でも200号で描くことが出来た。弓場さんは私をブラジルに呼ぶために航空券を買って下さった。大工さんはイーゼルだけでなく、ベッドも造ってくれた。私たち夫婦のためにレンガを積んで家を建ててくれた青年たち。洗濯から炊事等すべてやって下さった御婦人たち。本当に今思っても、私は皆さんに支えられ助けられていたのだ。私たちの家にだけ一枚のガラス戸があり、その窓からは地平線と椰子の木と原始林が見え、居ながらにして家の中に光が入って来て朝を知らせた。農場の人たちの家は全部木製の押し窓、如何に大事にしていただいたか。その最もきわめつけと思われるものに、コーヒー袋をはぎ合わせて作った敷物があった。素足で歩くとそのサラサラする感触はたまらなく心地良いものだった。そうして私は何日かを旅の疲れをいやすと同時に、ブラジルの持つ暖かい自然さと熱いハートにジワリジワリと気付き始めていた。

ブラジル画家修業の旅①(7月25日)
 
1966年、私は自由を求めてブラジルに渡った、35才だった。サンパウロ州ノロエステの弓場農場に着き、夜、草の上に身を投げ出して、南十字星の下でバッハを聴くと、堰を切ったように涙が溢れ、その涙はひれふす大地にポタポタと沁みていった。ブラジルは両手を拡げて私を迎え入れ、暖かく抱擁してくれたのだ。農場はアンデス越えを試みる青年や小説家をめざす客人もいて、若さと希望に溢れ、こういう芸術村があることじたいがまるで信じられない夢のような世界だった。農場主の弓場さんを中心に、彫刻家とバレリーナ夫妻、私は絵の指導、夫は音楽を教えるといった具合で、一つの理想郷を形成していた。
 先日、上野松坂屋の個展に檀太郎さんがいらして下さったが、彼もこの弓場農場にいたメンバーなので、実に36年ぶりの再会となった。アリ塚に生えるまつたけ科のキノコを彼が採ってきて、シチリンで焼いて二人は未知の食べ物に勇敢にも挑戦した仲間なのだが、彼は生やけを食べたので腹痛を起し、私はよく焼いたのを食べたので何事もなかった。この想い出話が出ると、まるですべてが昨日のことのように思えて、たまらなく懐かしかった。


友情に感謝の上野松坂屋展(7月19日)
 
個展は明るく力強いと好評だったものの、前半三日間は不調で売上げゼロ。お客様もまばらで、アトリエで絵を描いている時には想像すら出来ないことだった。身も心もこの世相のきびしさをもろに受けて、さすがの私もどうなることかと心配したが、四日目に大島からのお客様が「三原山」をお買い上げ下さったのがキッカケで二枚三枚と売れ出し、その日やっと笑顔が戻った。そのあと、また不調が来て、最終日は旅行から帰ったばかりの友人と、私の住んでいる加賀市の友人が駈けつけて下さり、ギリギリ目標額にたどりつけた。 感想としては、大島関係の人の応援で人が集り、ふるさとの有難さを今更ながら味わったことと、お買い上げ下さった方のほとんどが夫の友人だったので、私の苦境を夫が草葉の陰で見守ってくれていることを感じた。自分は一人ではないと力が湧いてきて、次の来年1月の伊勢丹展に向けもう構想を練りはじめている。 中学校の時の先生から姪に至るまで幅広くいるファンの方に見ていただくためにも創作の原動力を得た今は次が愉しみだ。明るく楽しく、力になる何かを秘めた絵を描きたい。夢はその時大勢の皆様の前で実現させたいものだ。会場にいらした方も、来られなかった方々にも皆様に御礼を申し上げます。

那智子のブラジル篇 見送りはただ一人 (7月7日)
 
私の絵はプリミティーブな味もあるが、それだけでは満足しない。そうかと言って、アカデミックな絵は興味がない。もっと斬新で美しい輝きを持つ色彩と、それに何よりも内なるものが奥から滋味となって滲み出て来る絵。描きたいと思っていた。これは実は今思っていることであって、当時は本能のおもむくままにブラジルへ翔んだに過ぎないがー。
 本能というものはスゴイものだ。旅費もままならず、同行者もなく、たった一人だった。友人の大丸美術部の実方さんだけが一人空港のゲートで見送って下さった。別れぎわにグンゼの木綿の下着を私の腕の中に押し込んで渡してくれた。これでどんなに助かったことか、まさにブラジルで私を助けた最初のものはこのグンゼの下着だった。 息せき切って駈けつけた彼女は万感胸に迫るものがあったのだろう、私が何かわめくと、その声に更に興奮して「知らない知らない知らないッ」と訳のわからない言葉を口走った。この時の興奮が、その後15年してから「帰国記念展」として大丸東京店で開催され、見事に友情の実を結んだ、友ほど有難いものはない。

那智子のブラジル篇 女中さんにしてください (7月6日)
 
ニ紀展入選の頃は人生バラ色で、行くべき道は自ら拓けたかに見えたが、褒賞受賞の折に批評会があり、宮本先生が「御本人は今後どのような道に進まれるのでしょうか」と言葉を結んでから、私の人生は再び大海原に投げ出されたような状態になった。その後、絵かき修業にブラジルへ行くことになるのだが、その前に宮本先生に聞きたいことや教えてもらいたいことが一杯あったので、主人が先にブラジルへ行ってしまったことをいいことに、宮本先生の内弟子になりたくて、そのことを奥様にお願いに行った。「何でもします
女中さんに雇って下さい」。だが、すでに東北地方の女中さん二人が行儀見習として来たばかりで、二段ベットに寝泊りしている状態だったので、この夢は叶わなかった。「中出家の奥様をまさか女中さんには出来ないでしょう」というお言葉だったが、無理なものは無理。 私は一年間ブラジル語を独り学習しながら片山津温泉に住み続け、帯に絵を描いて費用をため、航空券はブラジル弓場農場から送って貰って、やっと一人、えのぐかばんを肩にかけ、ブラジルへと旅立った。東京オリンピックから二年後位の時だった。


私の名前の由来(7月5日)
 
私の出産の時は、波浮港から馬に乗ってお産婆さんが来てくれたそうです。その朝、海辺の我が家のバルコニーにカモメがいつになく沢山飛んで来て、チーチーと高らかに啼いたそうです、それで母は、名前をつけるとき、「チーという字を入れてくれ」と言ったそうです。父はたまたま那智の滝を見に行った旅行のあとだったので命名しました。父は結核をわずらったことがあったので、那智子が無事当たり前に生き通せるか心配していたそうです。その他に、どんなことを祈っていたかは知りませんが、長生きをして欲しいと願ったことはたしかです。なぜなら、那智の滝は日本一長い滝だからです。

一晩の宿(7月4日)
 
父は若い時、天城山に迷い込み、ついに夜となってやっと探しあてた一軒屋で、一晩の宿を乞うたそうです。家の中を良く見ると、獣の皮が敷いてあったり、男ばかりで恐しかったが、灯につられて家の中に入ってしまった以上どうすることも出来ず、おずおずしていると、一番頭らしい男が、「お前は何が出来る?」と言ったそうです。父が「絵かきです」と突差に言うと、「それならいのししを描いてくれ」と言って、一枚の紙を差し出した。いきなりいのししを描かなければならなくなった父は、実際には一度も見たことのないいのししを、恐ろしさから逃れたいために、必死で描いて無事泊めて貰うことが出来たそうです。
 絵というものは全く思いがけないことから御縁があって始まるものです。この家は山賊の家で、その頭はいのしし年だったそうです。父は大島で椿の実に彫刻をほどこして島の産業にたずさわりましたが、いのししを彫る時は多分いつも、この時のことを想い出していたに違いありません。


東郷青児と大島 (7月3日)
 
私の生れた家のニ三軒隣に三崎屋という下宿屋が昔あったが、そこがどうも若き日の東郷青児が下宿していた所らしい。夜になると、どこからともなく美しい女の人の歌う声が聴えてきて、月夜の晩など、心をそそられるようなその声に、思わず下宿から出て夜道を歩いたという先生の想い出話を新聞で読んだことがある。今年の一月大島でふるさと展をした折、藤井伸さんにこのお話をしたところ、その美しい声の持主はどうやら藤井家のおばあちゃんだということが解明した。思わぬところから謎が解けたが、もし東郷青児先生が生きていらしたら、このお話を是非したかった。実は私がブラジルにいた時、偶然東郷青児先生にお会いしたことがあったので、私は大島生まれで、先生の新聞のお話を読みました、と伝えたことがあり、大島が先生と私とを繋いでくれて本当に幸せだった。今又こうした新しい話の続きがあるので、出来ることならもう一度東郷青児先生にお会いしたかったものだ。(昭和58年、80才で没)

私の絵心に火のついた話 (7月3日)
 
私は子供の頃体が弱かったので、父は私に画の道に進ませることをあきらめ、油絵具一式を小学校五年の時、受持ちの先生宅へ届けさせた。陣畠とよばれる先生のお宅ではからずも私は一枚の壷を描いた4号位の滋味あふれる作品に出会い、子供心にも油絵の持つ不思議な世界に魅せられた。立木政子先生の差し出して下さった夏みかんにお砂糖と牛乳をかけた美味しい素朴なあの味は、私の思春期の甘ずっぱい想い出と重なって今でもハッキリ憶えているが、これが昔の大島の原点であり、私の中に人間としての目醒めがあった。
 もし、火事で焼けていなければ、柳川館には高村光雲の彫刻をはじめとして、棟方志功や東郷青児の作品などコレクションが沢山あった筈。その他にも三原館や千代屋などの旅館には隠れた逸品があったであろうことは大いに想像できる。なんせ大島には100人以上の画家や芸術家が大正から昭和にかけて大ぜい訪れていたのだから。それにしても画をあきらめるために画材を人にあげに行って、かえって絵心に火がついたのが、この時の私であるが、その火は死ぬまで消えない程の火であろう。火はどんな処でつくかわからない
ものだ。


る・る・る・るのジュエット(7月2日)
 
うちで飼ってる猫はメスニ匹。ボーイフレンドが木綿糸のような声で、る・る・る・ると喉を鳴らして庭に入って来ると、三毛猫のミーちゃんがそれにこたえて絹糸のような声でる・る・る・ると招き入れます。
ボーイフレンドのチャトラは、悠々と台所に行き、カリカリとシーフードを食べて帰ってゆきます。我が家の朝は、今日もこうして爽やかに愛情溢れる雰囲気で始まる、ゆらゆらと、湖の上の山並から朝陽が顔を出し、シンフォニーのように初夏の空に幕明けの大気が拡がると、ネムの大木とあじさいの咲く草むらで、る・る・る・るのお見送りのジュエットがまた繰返されます。それにしてもこんなにも世話好きで心優しい三毛猫を見るのは初めてです。


案内状の宛名かき(7月1日)
 
今日はセッセと案内状の宛名を書いている。自分の画家人生で、今回は66回目の個展だが、何回やっても今だに満足する個展をやったことがなく、精一杯頑張って描いたとは言えると思うのだが、死ぬまでこの不安感と切なく辛い胸のキリキリ感は続くのだろう。でも、大勢の友人に会えて、話が思いっきり出来ることは、誰よりも自分は幸せなのではないかと思えてくる。だから続けて行けるのだろう。そうして私の絵を見ていただくことの羞恥心と緊張感がたまらないのだ。次は絶対更に良い個展にしようと思うと、山あり谷ありの人生も、途端に楽しくて仕方がない。ちなみに私の出す案内状は今回1000枚。

行って参りまーす (6月31日)  
 
或る朝、「行って参りまーす」の爽やかな声が聴こえ、山の中の一軒家に住む私は、ハッとして思わずあたりを見回した。隣接した土地が宅地となって家が建ち、その一軒目の家から聴こえて来たらしい。モデルハウスに頼まれて描いた私の絵が飾られ、どうも、その絵が案外評判を呼んでいるようだ。バルコニーでお月様を見ている少女の絵を見た人がそれと同じものを欲しいと注文を言って来た。そんなことは全く予想していなかったので目の前が明るくなり、一軒ごとに灯る電灯にさえも何故か希望が持てる気がする。このあたりは、昔、中出の山といわれていたが、今の私は、「中出ヒルズ」と名付けて一人楽しんでいる。

(6月24日)
 
第15回二紀展の折、入選の通知を受けた私は、島娘のいでたちのまま、かすり姿で上京、懇親会のため、上野精養軒の池のほとりにたたずんでいた。夕闇の中で、その姿を見つけた画家たちが忽ち寄って来て、「ショーに出るんですか」と話しかける。「いいえ私、絵が入選したんです」「えッ嘘だろ!」「いいえ、ホント!」。そこへ宮本三郎先生が「オーイ、那智子ちゃん来たか来たか」とニコニコ顔で手を上げて登場。
この時私がどんなに幸せだったか、今だに想い起すと感動で手が震えるくらいだ。

(6月20日)
 
出会いというものは突然やってくる。昭和30年3月、芸大出の中出良一が、大島に突然訪れた。私は一目でこの人と結ばれると感じた。それは全く不思議な感覚だった。私の精神がその年ひらめきに満ちていたのだ。
 私は数日前にお逢いしたばかりの宮本三郎先生のご指示の通り、二紀出品のための段取りとして油絵具を購入してくれることを彼に依頼した。そうして描き上げた6号、8号、10号の計5枚をその年の10月に二紀展に出品、6号の「海辺」が初入選した。これはすべて、出会いというものから成り立った一つの素晴らしいドラマである。


宮本三郎先生の墓参り(6月2日)
 
季節的には夏に向う今頃だったと思う。帰国後宮本三郎先生の墓参りをした。奥様は大喜びで私たちを迎え、うな重で腹ごしらえをして電車に乗る。「先生はどんなに喜ぶかしれないワ。だいたい弟子というものは教わるだけ教わってお墓参りする人はめったにいないのだから。東郷青児なんかお墓が九州だから誰もお参りしないんだって」。奥様はいつになく饒舌に何でもおっしゃった。
 鎌倉霊園に着くと、先生のお墓のまわりには、文士の方など華やいだ著名な方々のお墓ばかり。その低めにデザインされた墓石から、先生の安らかなお姿が伺われ、奥様のお経を聴きながらも、ああここは日本なのだ、やっと先生のおそばに帰って来たのだと実感。69才で亡くなった先生は、美しくて立派でダンディで、奥様の口ぐせのとおり、まさに世界一の先生だった。そして今も私の心の中に生きていらっしゃる。

宮本三郎先生と私 (平成15年5月29日)
 
ある学芸員は、宮本三郎が昭和49年10月に亡くなり、翌年3月には中出那智子が二紀会を脱会した事実を識り「さすが」と言ったそうである。先生の存在しない二紀会をいさぎよく退会したことへの褒め言葉なのだが、実は真相はこうである。先生亡きあと会議が開かれ、私は二紀会から脱会をさせられたのだ。脱会するのと脱会させられるのは大きな違いがある。 この通知をブラジルの地で受け取り、一つの大きな山が崩れ、世の中がガラリと変わってしまったことを感じた。そうして悲しさのあと、先生の大きな愛がヒタヒタと私の胸に拡がった。先生は私の帰国を待っていて下さり、二紀会同人としての私の籍を何年も確保していて下さったのである。先生から受けたご恩は本当に計り知れないものがある。

 
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