一口エッセイ② 
  


   大島で宮本三郎画伯に見出されて すでに50数年、いま絵筆を持ちかえ日々の想いを綴る
             (平成19年10月から平成22年12月まで)

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平成22年12月16日 ブラジルから取材

 11月にブラジルから取材に来た人が、私の詩集「黄色い絵」という本に感動して、私の個展会場に寄ってくれた。私もブラジルで大変お世話になった弓場農園の弓場勇さんに関しての取材だったので一役買った。
 みんな私位の年齢になるともう中々会えないらしく、私と会えたことは、ことのほか嬉しそうだった。しかも私の描く「アンデスの少女」の作品を見て、その方は会場で足が止まった。その少女はペルーの少女を描いたものだが、見た瞬間喜んで[僕のお母さんにそっくりだ」と叫んだ。彼は何と父親が日本人でお母さんがペルー人だったのだ。
 この思いがけない出来事で、彼は自分が混血児であることを話し出し、私たちはとてもいい話題でなごむことが出来た。彼は記者をしたり、本を出す企画をする人で、私に会えて弓場さんのことを聞くことが順調に進んで帰った。
 折しも、きれいで大きなどんぐりをいっぱい私の家の近くの小径で拾いそれを息子へのおみやげにすると言った。その大浦という人は今頃は得意げに、その日本の小径のことを話していることだろう。(ブラジルにはどんぐりの木はない)
ここで一句。「どんぐりをみやげに拾うブラジル人」
 
    
      
 

平成24年12月8日 鴨の話

 夕方5時、昼と夜の境目の時間に、鴨がいっせいに飛び立ち、リーダーと共に餌場の片山津温泉柴山潟へと向かいます。その時、私の家の屋根を通るので、その鳴き声を、皆さんにお聞かせしたいくらいです。
「クウ クウ」と啼くのですが、「さア行こうさア行こう」と聞こえます。20年くらい前に一度鴨料理を食べましたが、今の私は、鴨が可愛くてたまらないので絶対食べません。
その飛んでゆく姿は、アットいう間にあたりが真っ暗になるので見えませんが、声を聞いただけで120羽はいるだろうと感じます。そんな自然の真っ只中にいる自分を思うと、幸せでなりません。その鴨取りを事情があって見に行ったことがありますが、網の中に雄と雌が一緒に掛かった時があって、私がどれだけ感動したか、その感動こそが、今までそしてこれからも中出那智子を支えているのだろうと思うことしきりです。

    

 2年ほどパソコンが動かなくなってしまい一口エッセイを中断していましたが、何とか更新が可能となりましたので、よかったら原稿を送っていただけるように、とお願いしました。 再開いたします
 


平成22年11月14日
 
今、小松市の「ぎゃらりーソレイユ」で個展をやっています。銀座で個展をやるのは大変ですが、地元で友人知人に助けられて個展をやるのは楽しいです。飾りつけのうまい人、売るのがうまい人、キカイ類に詳しい人など、私の手の届かないえらい賢い人たちばかりで感心しています。25日間の個展でやりがいがあり、今年は何と4回も個展を開いて、どうなることかと案じた私の人生も何とか現在になっています。今日は運勢の良い日なので、元気で行ってきます。
 
  巨匠宮本三郎画伯の秘蔵っ子 
      「
情熱の画家 中出那智子展」

  会期は11月12日から30日まで
 
      




平成22年10月6日
 今、加賀市のアートギャラリー展を前にして必死で準備をしています。画家は個展の時は、すごく燃えてきます、多くの方々に絵を見てもらえることが最高の幸せです。金木犀の花のかおり、10月の風が秋を称えています。



      
平成22年6月22日 
 絵の売れない日が三ヶ月も続いたので、さすがの私も自分の人生大丈夫かなア」と心配になる。明日平成22年6月22日から7月5日まで、深田久弥山の文化会館で個展が開かれる。せめて、絵はがきでも売れるように祈る気持ちで明日の朝は、出迎えの車に乗って爽やかに出勤する。人間どれだけやれるか、やってみるしか手はない。
 畠にプチトマト、ナス、かぼちゃの苗を植えた。心がしっかりしていられるから立っていられるが、もし、精神にがっかりしすぎると、立ってなんかいられない。隣人の大切をつくづく感じる。神さま仏さん友人のみんなに心から感激している。今夜はぐっすり寝て、明朝は6時におきよう。一緒に寝てくれる猫ちゃん二匹にも感謝です。
 
           

平成22年4月15日 

 「大島むかしむかし」楽しくよみました。一字一句、高田鉄蔵先生と大島とを一挙に想い出しました。すべてがわかり易く、先生の大島に対する愛情が伝わりました。大島が酷く貧乏だったことは、初めて知りました。「海の亡者の話」は私の「ヒーメサマ」と、おなじようなことだと思いました。貧乏だから他人に入って来て貰いたくなかったその心が今は本当に分かります。アカトリの箱は、小さいとき、きっと見ています。何となく知っている形です。貧乏について言えば、私にはおぼえがあります。お互いに道で会うと「喰ったなア」と問いかけるのです。すると相手の方は「喰ったヨー」とあいさつをするのです。単なる会話かと思っていましたが、今おもえば、喰えない人もいるからそのように一口、気づかって言ったのです。大島のことを考えると涙が出ます。「ニシゲーじゃア何をくったよー」と呼びかけると「たかべを喰ったじぇーヨー」と声高く言うのです。食べていないときには「おーよー何か喰ったヨー」とごまかして言うのです。あれはすばらしい私の大島体験でした。

平成22年4月9日 

 私の小さい頃、ひいみさまの迷信があり、海の方を見たら殺されるという話がありました。舟に乗って他国の人が島に渡ろうとしているところを見るとあぶないというお話しです。他国の人ははるばる、どこからか、流れ着いてきて、空腹のため、何をするかわからないというのです。島の人も、食料が豊富にある訳ではないので他国ものは、一切上陸させる訳にはいかないのです。事実、泉津の方で、そういうことがあったのかもしれません。
 私の家は海辺に建っていたので、日没時、こわくてこわくて、海を見ないようにして学校から走って帰りました。今思えば、そんなおはなしにもビクビクドキドキしていた幼い自分がいとおしくてなりません。やっと海をゆっくり、たたりもなく見られるようになったのは、小学校を卒業してからでした。

平成22年3月24日 

 藤井工房から、画家藤井重丸77回忌記念展のお知らせの予告紙が届いたが、同じ画家として私には非常に興味深いものがあったが、先ずアンコ人形彫りの創始者であったこと、大島が気に入って岡田に住んだこと、年令がわずか31才であったこと、幼くして父母を亡くしたことなど、それだけで感動がある。作品は素朴にして、まったく大島に似つかわしく親しみやすいもの。彼が手に抱いているのは子猫に見えるが違うだろうか。版画のアンコは手に提灯のようなものを持っている様に見えるが、何かにつけ、大島はちょうちんをよく使ったと思うし、魚の地引き網の折りも、もしかしたら暗くてちょうちんを手に浜辺に行ったのではないかと思ったりすると、島の生活がなおさらいとおしく親しげに思えてくる。
 この重丸という画家と大島とは、本当に似つかわしく思えるし、大島だからこそ彼が彼らしく作品を生み出せたと思える。大島の純朴さが重丸を呼んだのだ。アンコの顔も岡田風だし、岡田を愛した彼の気持ちは、ものすごく私にはわかる。
    


平成22年2月10日 

 只今、展覧会終りました。最初。小さな幸せを味わいましたが、最後の今日30号の大きな作品がドカーンと売れ、忽ち火がついたように幸せを感じました。小松でお生まれになった宮本三郎先生の昔の推薦文を飾ったところ、大好評で、誰もが私を祝福してくれ、効果がすごくてびっくり、フルートとヴァイオリンで初日と日曜日は知人の応援で展覧会が賑わい、第80回の展覧会は夢のように盛大でした。いつも心の中が淋しい気持ちでスースー冷たい風が吹いていたのに、とたんに南風が吹いて、太陽が照ってくる感じでした。ファンの皆さま、宮本先生、新しいお客様みんなみんなありがとうの感謝の心でいっぱいです。私はもっと、大島出身の画家として成長します見ていてください。藤井さんほんとうにいつもありがとうございます。


平成22年2月5日 
 地元加賀市唯一のデパート小松大和が6月25日を以て閉館となるのです。私はあさって2月4日から南米・ヨーロッパ絵画と陶画と題して個展です。このでぱーとともこうしてお別れになると思うと淋しいのですが、初日にご挨拶があるので「高き幻を抱け」ということを話そうと思います。これは、本当は相沢先生の説教の題名ですが、この言葉が気に入っています。それから宮本三郎先生が「那智子の絵はなにものにも捉われていない」と言っていただいたので、命をかけ一生をかけてこの生命力ある言葉を一生つらぬきます。明日は私自身が飾りつけをします。
平成21年12月12日 
 今年は何にもいいことがないなアとボヤイていたら、12月になってひとついいことがありました。加賀市音楽協会がこのたび30周年を迎え、初代の中出良一が表彰されることになったのです。
 褒賞状と記念品を12月13日に舞台にて夫の代わりに私が受け取ることになり、思いがけない幸せに、メソメソしているひまもなくなりました。夫も天国で、「やっとオレも表彰されることになったか」と喜んでいることでしょう。高校の同級生だった人がセッセと胸像を作りつつあります。
 私はまた、2月4日から9日まで小松の大和デパートで個展ですのでさいさき良い年を迎えられそうです。              
        
      
        アンデスの少女 6号
 
平成21年8月11日 
 秋になったら、いろいろなことを想い出しました。三原山に登ったこと、一合目にロバがいたこと、三合目あたりで、大島あんこ木彫りを売っていたこと、小学校二年生位でラクダに乗ったこと、三原山の噴火口で、那智子の握ったおにぎりが置かれていたこと、南島舘で休憩したお客さんが火口に飛び込みをしたのです。噴火の時は一人で登って、かえりみち、夕方に溶岩が中の方でまっかになっていてあぶなかったこと、昭和20年代は大島ブームで橘丸と菊丸とあけぼの丸と三隻みんな大島に来ていたこと、アンコさんのきれいだったこと、テープを張って見送りしたこと、弘法浜で泳いだこと、くじらふかんば(前浜にあった)で素潜りをしたこと、吉谷神社で1月16日のお祭りを見たことなどです。

平成21年10月24日 感謝

 今私の家が火事でないことを感謝します。今私が病気でないことを感謝します。今私の家が地震でないことを感謝します。今私が充分に食べ今日やるべき計画を実行できたことを感謝します。昨夜は加賀総合展で、実に楽しく、来年、加賀市の美術館で展覧会がやれることに急になったことに幸せを感じます。飼っている猫が幸せにおとなしくしていてくれることに感謝します。今日頑張って大島のキリスト教会にバザー用品を送れたことに感謝します。50年会えなかった世界的ビアニストのフジ子さんにリサイタルのあと、会えてお食事の出来たことを感謝します。私の心が今希望に満ちて、よい作品をまた描こうと思えることに感謝します。みんなが平和で、弟妹が仲良くいきていること。一口エッセイを描かせてもらえることに感謝します。

平成21年10月15日 

 昨日は、世界的に有名なイングリット・フジコのピアノをききに金沢へ行って来た。知り合ったのは、私が24才の時だが、お会いできたのは今回が初めてで、抱き合って会えたことを喜んだ。24歳の時、一度東京で会った記憶があるにはあるのだが、いつでも想っているので、どこからどこまでが、現実なのかわからない、不思議な間柄なのだ。フジコさんも、良一さんと那智子のことは、いつも想っているから、いつも会っているようなものだと、と行って下さったので二人は似ていると思った。金沢でのコンサートは盛大で、来週NHKで放送されるという。
 一番好きなのはカンパネラ(鐘)という曲なのだが、天才というものは、体力をあまり使わないで弾くものらしい。朝から何も食べていないといい、私たちとフジコさんと三人で夜食を食べたのだが、彼女はお茶漬けしか食べなかった。天才の一人の女の知られざる姿を見る想いがした。
                

平成21年10月13日

 明日は友達の案内で、イングリット・フジコのコンサートに行きます。フジコさんは、夫が芸大時代に付き合っていた友人で、世界的なピアニスト。ショパンやリストをやります。何といってもフジコさんは天才なのでこのチャンスを逃すわけにはいきません。一度CDを聞いたことがあるのですが、他の人とまるで音が違うのです。楽譜に従って弾いているというのではなく、まったく他の人のメロディーと違っている、音色が魔性のように絡まって溶け合って、分解できない指の使い方です。本人いわく、「母にはしかられてばかりで、賞められたことは一度もなかった」そういうくらいきびしい芸術の世界です。もう二度と聞けないピアノなので風邪をひかないように注意して気をつけて聞きに行ってきます。
フジコさんは片耳がまったく聞こえないのでおしゃべりもたくさんしたいのですが、実をいうとあうのがこわいのです。何しろ天才だし舞台のことで気が立っているだろうし、いってみれば私とは恋敵のような存在ですから。しかし、良一さんが生きていたらどんなに喜んだことでしょう。
しかし、これまた、ふしぎなことに、良一さんも右の耳が悪く、死ぬまで秘密で通しました。そういう私は、絵のほうがまだまだ語れないほど創作のおくれた人間です。とにかくすごいフジコさんのピアノを聞いてきます。私の運命も、もしかして変わったりして・・・・。

平成21年9月25

 昨日、元村キリスト教会で長年牧師をしていた相沢良一先生が亡くなられた。先生はロマンチックなお方でゲーテの詩が大好きだった。「誰が風を見たでしょう。貴方も私も見やしないけれど、木の葉をふるわせて、風は通り過ぎてゆく」ゲーテ。高校二年のとき、先生のお説教をきき感動した。その見えないものとは神だが、神は常に私たちと共にいて下さった感じがする。
 また、「神は愛なり」と「高き幻を抱け」という説教が良かった。今でも私は常に高き幻を抱いて生き抜いている。人は余生を好きな絵をかいて過していると見ているかも知れないが、この高き幻に向かって絵かきはどれだけ祈り、努力し、絵とたたかっていることか。まるで、まだ、私の絵は高き幻には遠い。
 年をとると一刻一刻が惜しまれてならない。本当に人の心に響き、魂にかたりかけるような絵を描けるようになりたいものである。
  

右から相沢牧師・那智子さん・牧師夫人
大島の展覧会場にて
    
平成21年9月9日 
 涼やかな日となりました。猫ちゃんも座り方、野原に居座る様子もすべて秋式となり、二匹して連れだってお散歩に行きました。個展の時は、絵がまんねりになったため、実に苦労しました。この苦しみから脱出するため、取材旅行を企てたのですが、色々なことが気になって行けませんでした。
 余りの苦しさに猫とのコミニュケーションが崩れ今は優しくしてあげているのに後遺症が残って、何でもない時でもおっとり出来ず、急に走り出したりまるで犬の遠吠えのような、いやな声で大きく、いつまでも鳴き続けます。猫ちゃんごめんネ、ゆるしてね。

平成21年8月11日 猫が売れた

 バイアーナで知られる「那智子油絵展」だが、今年の個展は驚くなかれ猫が三点、続けざまに売れた。今はいやしの時代でかわいい猫がその中心となっているそうだ。情報が入り必死に描いた、五枚もかけ、おまけに犬まで描けた。70回以上も個展をやっているとマンネリになりやすい。心にドーンと何か新鮮な体験が必要なようだ。今年は大分苦しんだが、去年伊勢丹がなかっただけ、努力しかないと、と思って死にものぐるいでお客様にもそれが何となくわかったとみえて猫のおかげで、嬉し涙で帰ってきた。留守番の二匹の猫は三日間ニャアニャア泣いて文句をいうことしきり。
 おたがいにご苦労さまでした。
  
平成21年7月16日 
 作品の油絵を31点描き終り、やっと東京へ送ってホッとしています。いつのまにか真夏となり、36度すぎて、何にも出来ないほどの暑さです。絵をかいている時は無我夢中ですが、絵以外のことは掃除も出来ない暑さです。ところで美術新聞をすすめられて読むようになり、美術の一から勉強しなおしです。絵を書くのは好きでも論じるのはまったく嫌でそれに関する新聞も読むのがいやだったのですが、あまりにも自分が自分の世界に閉じこもっていて、おかしいことをこの頃思い、何でも素直に勉強しています。
 一年生になった時のすがすがしさと、こころのときめきを感じます。
 
平成21年1月3日 新しい年に
 新年お芽出度うございます。お正月らしく雪が降ったあと、小鳥たちが遊びに来て窓辺で目白やシジュウガラ、ひよどりなど、賑やかにのどを響かせています。私にとっては、とにかく無事に年を越せたことと、今年は二つも個展をあたえられ、心から幸せに思っています。
 一つは小松の大和デパートで2月25日から3月2日まで、もう一つは7月29日から8月4日までで、そのスケジュールのメモを目の前の壁に貼ってあるだけで生きる望みが湧いて来て、何よりの幸せです。
 ふる里大島もつつがなく穏やかな新年を迎え、真っ赤な椿にかこまれて、さながら夢のような世界と思います。藤井工房も健康で、工房館主藤井さんの存在がとてもとても私には貴重で、唯一の羅針盤みたいなものです。
 いつも心の中で、私の生涯はこれでよかったのだ!!私の生き方はこれで良いのだと感謝していますが、藤井さんの存在は忘れたことがありません。大島があって私があり兄弟があり、豊かな護りの中にうることが出来るのです。

    
                      

平成20年10月4日 金木犀と銀木犀
 
日々はするすると夢のように過ぎて行きます。したい仕事があるからちょっと待って、と言っても聞く耳持たぬとはこのことです。我が家は、金木犀と銀木犀が同時に香りを放ち、訪れる人も「スゴイ」と言ってほめたたえて言ってくださいます。義父が育ててくれたそれらの庭木がこうして秋の月の夜にも平安朝の時代を思わせるほどの優雅さです。お庭で気にしていた義父の姿が浮びます。そして、明日も健康で良い仕事をしようと誓います。三匹の飼い猫もおとなしくものしずかに今日という日の夕暮れを味わっています。

平成20年9月16日 念願の句集
 
適温の秋になり、やっとアトリエ入りしました。次から次からイメージが湧くのですが体力がついて来なくて、早朝にだけやっています。今年は伊勢丹で20回展をやりたかったのですが、やれなくて、まるで世の中が変わってしまうような悲しい気分も味わい、絵は一旦描けなくなり、精神状態を平常に保つのがやっとでした。来春には松坂屋展がやれそうなので、昨日の電話以来元の自分を取り戻し、風景を見ても絵にみえてくるようになりました。
 それから嬉しい事に、父長島定一(俳名悠々子)の句集がめでたく敬老の日に出版されました、長い間の念願でした。

                       句集の表紙絵は那智子画「旅館南島館」
平成20年9月9日
 
 
虫の音が庭いっぱいに強く広がり本当に秋の到来を感じます。ブラジルでは移民100周年を迎え、上を下への大さわぎです。いつも来る友人の手紙も途絶えて、如何にイベントで忙しいかが伺えます。私の「月としだれ桜」の油絵の作品も誇らしげに飾られているかと思うと嬉しいのですが、押すな押すなの人波で、しんみり眺めている風情ではないかもしれません。とにかく移民がはじまって100年とはすごいことです。私の青春時代には、北の山に住んでいる人たちもブラジルへ行く話をしていました。あれから何と50年以上たっています。今朝の明け方には、美しい母と肩を並べて寝ている夢をみました。「那智子 那智子」と語りかけて、次々と色々なおしゃべりをするのです。私はほほえみながら聞いていました。そこで眼が醒めましたが、今日一日はその夢のおかげで一日幸せに過ごせました。お父さんっ子かとばかり思っていましたが、ごはんの支度もお風呂も、いつもお母さんと一緒だったことを思い出し、自分が如何に幸せで恵まれていたかに感謝しました。そのわりには、親孝行と供養は何もせず本当にしょうのない、ぎりぎりで生きている余裕のない人間だと思ってあきれます。今日の夕日は真っ赤でした。毎日見ていた大島の真っ赤な夕陽、青い海、黒々とした磯辺の岩、すべて毎日見ているようで、私は自分でも、心は大島に住んでいるのと同じ感覚です。こうして想って想ってあと何年生きられるのでしょう。今日は絵と畠とつけものをしました。

平成20年8月22日 
 
夕方6時頃の夏空は、お金では買えない思いがけない美しさだ。西の空にお盆のような雲が現われあかねに染まって行く。東の空をふりむけば、富山空港発東京便がシルバーの美しい姿を振りかざしながらとび立って行く。小松空港発の東京便は一度飛び立ったところで、北に向かって旋回をするのだが、この旋回のななめの姿が何とも美しい。若い青年の運転か重厚さを帯びた老練の機長か、すべてが想像できる。雨の日や風の日はどんなに大変だろうと、そこまで親しくなって思う思うこの頃だ。汗だくだくの真夏日とはなったが、からすの赤ちゃんもせみやきゅうりや雨やどりで見つけたミミズを食べて無事生きられそうでヤレヤレだ。あとは花火を待つばかり。

平成20年8月17日 
 
相当長く生きてきたので、はさみは切れぬ、包丁もなかなか切れない、まな板はへこんでくるし、お食事の支度も大変で、何でもかんでも力がいるので、手のひらはまっかっか。窓から見える台風のあとの湖が古色の緑をしながらも赤く夕焼けに染まっている。風がバーッと窓から入ってくると、猫もいったん食事のパクパクするのを止めて、ご主人様の私の顔をみている。大島からノスタルジックマップの注文50枚、急に元気が出て、さっと明日の仕事の手順も頭に浮んでくる。明日の手順が決まると今度はあさっての手順も、自らが見えてきて、急に自分は幸せだなァと思えてくる。とにかく今日も無事だった。この頃アレルギーで木綿の着物がしきりに着たくなった、かすりの肌ざわりがなつかしい。

平成20年8月13日 
 
夏が終ろうとしていた。日が昇ると真っ赤なそれはさらに真っ赤にもえてあたりに君臨していた。せみは最後の力をふりしぼってなき、声変わりした男の子のように最後の甘え声をだるそうに出していた。きゅうりはもうはじから枯れはじめ、トマトはもうダメ、なすだけが形さまざまに姿を変えてぶら下がり、隣のおじさんが植えた苗から、私の知らないうりが一個だけ成功して大きくなっていた。ああ夏が終る、あしたは弟たち妹たちと墓参り、そのあと、イタリアンを食べて花火でキャーツとやってこの夏も終り。もう少し、みんなが来るまでに表側の玄関先をきれいにしよう。そうして私ももうちょっとこぎれいにしよう。さア夏の終りだ、夏よ見事に終れ。

平成20年8月7日 夏の玄関
 夏の玄関は大にぎわいだ。西瓜が足下にドカンとおかれ、大島からはたかべの到来、山のようなカンカラカンに乾いたせんたくもの。なんて嬉しい夏なんだろう、8月7日ともなれば立秋といえば立秋だが、そうと知ればなおさら夏がいとおしく。夏の食べもの夏の行事がなにごともいとおしくなる。くさかり機で苅った枯草がそこかしこちぢんで行くのも何とも哀れでいとおしいではないか、ああ夏よ。

平成20年8月4日弟に助けられた話
 18の時、海でおぼれそうになった。一緒に泳いでいたのは伊豆男と私と東京から来ていたまたいとこの紘一君。波がうねっていて怖くなり、岸に戻ろうとしたが、いくら頑張っても岸の方に行けない。急に不安になって「助けて」と呼んだが誰も知らん顔。3回目に伊豆男君が異変に気づき「姉ちゃん泳いだらダメ ただ波に浮いているだけにしなさい」。この言葉でおぼれずにすんだ。しだいにうねりが静まり、私の呼吸も楽になって、気がついたら岸辺が近くなっていた。波打際にたたきつけられた私は、しばらくは動けず、亀のようにハアハアとじっとしていた。8月になると必ずその時のことを思い出す。あのとき、あわてて水を飲んでしまったらどんなにか大変なことになっていただろう。

  
平成20年8月3日 色の魔力
 
色は強く人間の脳に働きかけてくれる。こう紫色をみると、農は理智と奥行と深さとするどい洞察力といろいろのものを引き起こしてくれる。そのとなりにダイダイ色が並ぶと、忽ち世界は雅の世界となり、美しい音色や話し声やなまめかしさや心の温もりがよみがえって来る、色の世界の不思議は誰も解かないが実に真実があって奥深い。たとえば、ま白な四角の部屋に一人で30分居たとすれば完全に頭がおかしくなる、まさに色は人を操れるのだ。
 
平成20年8月1日 からすからのラブレター
 
からすのカーコからラブレターが届いた。真っ黒でつやのある右側の風切羽根だ。波状にデザインが美しい、5才くらいの時の羽根のラブレターは帽子に飾ったが、今日のは18才くらいの深くて青いビロードのような羽根だ。生きるの死ぬのと泣き騒いでいた赤ちゃんも今日は、水害のあった金沢の方まで行っているらしい。昼食は美しいなすの色を愛でつつ油で味噌炒めとしようか。夏はたのしい。今夜から毎夜続けて花火となる。
 
平成20年7月20日
 
熱中症にかかり3日も体力が戻らず寝込みました。帽子や傘はうっとうしいので早く歩けるよう、何もなしで町まで用足しに行ったのはいいのですが、最後のお総菜屋さんで具合が悪くなりソファーにしばらく寝かせてもらい、息子さんに家まで送り届けていただきました。これからは、歩きにくくても帽子と水入りビンは必ず身につけて歩くことに致します。さて、伊勢丹展がないとなると、相当精神的に参っていましたがもう真夏日のくりかえしでで。早く画家としての力強い立ち直りが欲しいものです。朝食後2時間が画家にとってはゴールデンタイム、しっかりと作品を作っています、新たな希望に燃えている自分を感じます。次は一体何が私を導き、そして育ててくれるのでしょうか。

平成20年7月19日 
 
蝶は熱中症にかからないのだろうか、緑の窓辺をひらひらと餌を探して午後一時半、暑い盛りを生命を限りに迷い込んできた。先日は躰の根元が尾も羽根もオレンジ色の珍客が訪れ、昨日は竹山でおはぐろとんぼを見て、長野に疎開した千曲川を想い出した。この本格的な夏の到来で生きるか死ぬかの激しさである。葉物の新芽はどうなったやら、畑の中へ見に行くのさえ恐ろしい。当の私は二日前熱中症にかかり、友人の息子さんに車でやっと我が家に連れてきてもらった。今日はまだ動けなくて氷を頭にのせ、うんうんうっとうしい苦しさにもだえている。昨日までブラジル行きを考えていたが、今日全く不可能を感じた。厳しい美術の世界はどうなってゆくのだろう。仲良しのアーチスト作品販売員に電話したらケロリと「競売会からあっちこっちたのまれているのよ」とアッサリ。それに娘のいるアメリカに初孫を見に旅行中で人間のたくましさに計り知れぬものを感じる。実に余裕のある世界ではないか。

平成20年7月13日 エッセイB
 
「みっちゃんとりたい花いちもんめ」「せっちゃんとりたい花いちもんめ」。小さいときの夢を見ていた。からすがかァかァかァと啼いていた。風邪は治ったらしく気分は気分はよく、あたりは静かで、風もなく暑さもなく、私は白いパジャマで伸びをしていた。静かにあたりを見回し幸せな猫の餌をポリポリ食べる音に酔いしれる。ああ風邪はなおったらしい。もう一変思って置き出し、今この文を書いている。朝6時、木の葉の間から優しい初夏の明るさが拡がってきた。
 これから語ることは、本当にあったわが家のお話です。平成一年、亡くなった良一さんの顕彰碑設立のお祝いから帰宅すると、何と夢のように白い犬が我が家の玄関先にいたのです。まるで天から降って来たような犬です。それがまるで神の使いのような顔をして当り前の振る舞いで私の帰宅を待ち受けていたのです。

平成20年7月12日 エッセイA
 
人間一人で生きられないって本当ですネ。
 最近辛いことがあって、みんなのおかげで生きていけることがわかりました。前の空地で畑をやっている人が人参玉ねぎ、じゃがいもを素手で抱いて持ってきて呉れました。「カレーの材料にどうですか?」と。「私は「そうですネ」と嬉しそうに答えました。たったそれだけのことですが、私は人に支えられて生きているのだと感じ泣けて泣けてたまりませんでした。何か錯覚して一人の力でりきみ返って生きていましたが、マグカップの焼き上がってきた窯元からの作品をみて、初期の頃とくらべ、しゃだつにスラスラ描いてはいるものの力が弱く色も浅く、腰くだけになってその場でへたりこんで一時間も眺めていました、年とは恐ろしいものです。若いときの力強いえのぐのすり方、色彩のたっぷりとした鮮烈さ純情さ、何も彼も初期の自分の作品が立派に見えて今の作品がくずに見えます。どうしてこんなになってしまったのでしょう、精進はしているものの、失われてゆくものと、忘れ去られてゆくものがあるのでしょう。77才を迎えて、また一歩からやり直しです。えのぐは15分よくすること、墨は濃く、つやつやとさせること、表情は生き生きと、生を写して描くこと、身も心も若くあること、みんなにそして天と地に感謝すること、人の言うことを聞くこと、敬虔になること、自信を持つこと。

平成20年7月7日 
 
伊勢丹での第20回展を楽しみにしていたが、何の通告のないまま月日が過ぎ、最近やっと現実として、その企画はないことを知り、気が抜けた日々だったが、夏になり、私も次の生き方を模索している。
 これからは、恥ずかしくないような良い作品を心掛けること。一応来春の上野松坂屋展はあるかも知れないと想定して準備すること。体調を整えること。何に対しても順応出来る人間になること。など心に言い聞かせ乍ら暮らしている。事情があって今まで入っていた家賃も入らなくなり、月3万の年金だけで暮らしているので、人生最大のピンチだが。崖っぷちの智恵とファイトで神を信じて生きています。新たに四つも病気を体験し、北陸の生活もこれまでと思うに至り、大島に住むことも考えたが、淋しさや貧しさに負けてはいけないと思う今日この頃、目を閉じて自分の人生を考えていたら友人からお花が届いた。想えば明日は77才の喜寿の誕生日。新聞の読者箱に「今の自分が恰度いい」という言葉が書いてあり、ああ本当だと思って今夜も感謝で終えた。平凡で、無事であることの何と幸せなことか。

平成20年6月22日 
 
カラスのカーコは生まれた仔のために、びわの青い実を土の中にかくしていたが、ついにこの小雨続きで茶色く腐ってしまった。枯草の下にあるのだけ露にぬれずにオレンジ色に輝いている。二羽の赤ちゃんがらすは、飛ぶ練習で湖の近くまで行っているが、今夜はきっと夕食はあのびわなのだろう。この地球上では人間が一番でからすは一番ではない。だが、二羽の親が二羽の赤ちゃんを見守る姿を見ていると、遠い昔や父母のことなど想い出し、からすの毎日の知恵のしぼり方の中に何ともいえない慈愛があって、かえってなごまされたり、学ばされたりする。静かでおだやかな片山津温泉を地球の一部として、私は愛さずにはいられない。今から五センチの黒い一枚のからすの羽は、私の帽子のアクセサリーです。

平成20年5月13日 美術の業界様変り
 
第20回新宿伊勢丹個展は一年間たのしく夢見ていたが、この頃デパートへの誘客がむづかしくなって個展の企画はあっけなく夢で終ってしまった。今年一月の年賀状では、ファンの方が「たのしみにしています」との言葉を添えてくださっていただけに、いまだに信じられないし、あきらめ切れない。
 しかし、東京に住んでいたらもっと早くキャッチ出来たニュースを何となく世間にうとい私のせいで、恥ずかしいくらい今とまどっている。せめて画商さんには、総合展にでも出させてくださいとお願いをして、一件落着となった。
 現在金沢のヨーロピアン家具屋さんで、ささやかなミニ展を開き、あとは加賀市で、今猫ブームなのでマグカップに猫を描き、今日ははじめて墨画調の芸風の高い作品が一点でき、夕食後何時間も眺めている。
 「マルタ島の猫」 猫にはみんな名前がついていて、それはサインと共にカップの底にかかれている。

                
       
平成20年5月13日 
 
耳を患ったら急に気が弱くなり、ためしに大島に電話したが何の反応もなくこの話はこれで終ってしまった。
 二匹の飼っている猫を見ていると、自分の画業のためと、猫のためにも私はここで頑張ろうと思うに至った。玄関にはビワの新芽とつつじを生けて春を愛で、ブラジルからの友人二人を迎え入れて話をしていると、だんだんと人生の自分の存在と全体像が見えてくる。今まで楽々と生きて来れたのに、ここへ来て人生の坂がとても急に大きく見えてきた。辛いことは辛いが、最後の想い出として、ブラジルに一点自分の作品を送れたことと、自分の大好きな画の道を、最後まで続けられそうなことは、何と幸せなことだろうと思うに至った。
 ブラジルの友人は、能登半島での俳句大会の代表を無事に勤めあげて、悠々と笑顔で帰路についた、考えてみれば何とステキなことであろうか。
                  
                       バチラ(ブラジル風景)4号

平成20年4月30日 
 
ブラジルから友人たちが吾が家へ寄ってくれた。能登で俳句大会があったそうで、日本中を自由に行ける周遊券を手にして何と自由に楽しく旅行をしていることか。
 中年期をサンパウロで過し、今は素晴らしい老後を当り前のように闊歩している。日本での私は、急に老後の雑事が多くなり、頭の整理も大変なのに、この差は全く何なのだろう。要するに、大いに語り合うことが目的の再会なので、お互いプレゼントの交換がなくても、百にも勝る友情のぶつかり合いだった。
昨日は東京都名古屋からの友人全員で和食を共にし、今年に入って初めての素晴らしい会合だった。私は思った、この友人たちのためにも、私はもっとしっかしなければいけないと。


平成20年4月25日 ふのりとたけの子こごはん
 今日は大島から「ふのり」を送って貰いました。料理法も書いてありましたが今日はたまたま竹の子ごはんなので。ふやかしたふのりを油でいためてから、炊きたての竹の子ごはんに混ぜて試食してみます。
 今日は珍客、ブラジルから俳人と詩人のご夫妻がお寄りになり、30年ぶりの再会でした。そして私にいろいろアドバイスをして下さったので、それを記します。
①単独で生きないで、何かのグループに入ってコミュニケーションをとって暮らすこと。
②画の仕事についてはマネージャーを持つこと。
③思いがけない病気や不意の事が起るから、いつも暮らしの準備、心の準備をしておくこと。
 今まで我がままばかり通してきたが、4月初めから耳を患い病院通いをして、きびしくも真新しい心の生活がはじまっている。私はまるで新学期を迎える一年生のように新鮮な気分でいる。
 そうして10個のマグカップに昨日「ねこちゃん」の染め付けが終ったのだが、ブラジルの友人にもそれが大好評で、体調を保持しながら、このしごとが少しづつ将来への生活の足しになればと、希望につなげている、その焼き終わってからの作品の写真は徐々に発表します。



平成20年4月16日
  
 
            マントンの港
 この春嬉しかったことは、3月の陶画展が成功したこと、マグカップ120個の注文。そして水彩画を注文したお客様が玄関にマッチした雰囲気を大変よろこんで、是非私に見せたいと迎えに来て下さったこと。南仏調の新築のベージュの壁と私の画の華やかな色彩とがとても効果的で、来客が立ち止って玄関に入ろうとするその瞬間、その距離から中をのぞくとライティングに従ってパーッと作品が眼に飛び込み。添えられた活花も釣合いがとれて、完璧な演出となるのである。ご主人は注文した作品が自分の思った以上の出来栄えだったこと、注文するという行動に出たこと、見て貰った喜びとで100パーセントのご満悦だった。

平成20年4月6日
  
 
             三原山
 今日という日があるということはスゴイことだ。
今日、私が何か素晴らしいことを思いついて、その考えの出発の日である場合、あきらかに今日は素晴らしい日なのだ。
 朝7時、あたりは静かで、各家庭では春の幸せなまどろみの中にいる。朝の太陽が湖上をうらうらと昇り、我が家に咲き誇る桜は、今を盛りと枝を拡げ花びらを拡げて華やいでいる。
 今日の私の頭に浮んだアイデアは、昨日のスケッチから始まり、それが今朝また、あたかも習慣であるかのように筆が走るのである。この走りによろこびが生れ、感動がある。幸せな前途の目標が生まれてくる。苦境でも自分を信じて、立ち上って行こうと思う。難儀な時ほど、精神がみなぎってくるのが感じられる。t

平成20年3月30日
 今年になって良かったことは六本木の新国立美術館に私の「月の願い」の作品が飾られたこと。
何人かのファンの方が訪れて下さったが、係員の方に作品の前まで案内していただいたと喜んで下さった。
 また、はるばるタヒチから訪れたゴーギャンのお孫さんもこの行事に参加され、講演を行ったが、私はたまたま陶画展の製作中で上京できず残念だった。お会いできたら、私は30年前にタヒチを訪れてゴーギャンの美術館を拝見したことを話したかった。その後私の作品の前で、そのお孫さんが一緒に写真を撮ってくださって、サイン入りで写真が送られてきたが、今ちょっとそれが見つからないが、いつまでもこの嬉しさは忘れられないことになるだろう。月に向かって祈りを捧げる白馬の姿に皆さん救いを感じられて好評とのことでした。

平成20年3月23日
  
 夜になって我が家の裏庭で山鳩が啼いている。
人の世のおもわくにまぎれず、まるで神々しいまでに清らかな声である。家の中の方が寒く、庭に出ると、ボーっと梅の花が白く見え、そして黄色のらっぱ水仙がいっせいに顔を揃えて咲いている様子は、春が降ってきたという感じである。
 仕事の方では、マグカップ100個の注文とか、活々した生活を送れそうなきざしになっている。陶画展は苦しかったけれど、吾が人生の一幕として、いつまでも脳裡に輝くに違いない。

平成20年1月30日    
   
            月の願い 
 



 身の引き締まる想いで新年を迎えています。1月24日から2月4日まで、東京六本木の国立新美術館にてチャリティー美術館展が開催されるので作品「月の願い」を出品いたします。会場にでむくつもりでしたが、都合がつかず上京はしません。御案内だけ報告いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。


平成20年1月5日  新年おめでとうございます
 
          バラ色のベネツイア
 新年おめでとうございます 爽やかに初春を迎えました。
昨年12月に東京銀座画廊・美術館にて第13回アートアカデミージャパン展が開かれ参加しました。会場には私の代わりにファンの方の一人である柳瀬君に行っていただきました。なんとこの柳瀬君は大島出身であるばかりでなく、私の弟と同級生、更に付き合ってゆくうちに、阿部さんや藤井さんとも親類だということがわかり、にわかに人間関係のきずなというものを感じました。かれが会場で買ってきてくれた私の出品作「バラ色のべネツイア」の絵はがき、このたった一枚を愛のリレーのバトンタッチのように、私から藤井工房にお送りします。今年もこの絵のように明るく愉しくそして希望に満ちたものでありますように祈ります。
彼のお手紙の文面にステキなことを書いていただきましたのでそれを記します。「バラ色一杯の画面からはラビアンローズ幸せ一杯を感じさせ、人物描写は人生の切り取られた幸せの一瞬であり会話内容まで聞こえてきました。空、建物、海、人物に四分割された平行線構図は安定感と写真作図の勉強になりました。」




平成19年8月5日
  失われゆく昔の風情 懐かしい炭焼きの香り 
                               (
北国新聞ツッパリせいかつ考 昭和60年3月掲載)

 
「昔は炭焼きのにおいがしてたんじゃなかった?」。伊豆大島に着いて二日目、散歩のあとで夫は言った。いいこと言ってくれた。昔の大島は本当にそうだった。ツバキの花の蜜(みつ)のにおいに混じって、炭焼きのにおいがたまらなかった。
 三原山のふもとの山道を、畑に行く島のアンコが通ると、頭上の肥えおけがポチャポチャ鳴り、背中に赤ん坊、手には牛の手綱を引いているので、私はよくツバキの木の下に身を寄せたりしたものだ。足もとの牛ふんはおばあさんが来て拾って行った。畑の肥料にするためにー。
 私は東京での個展を終え、生まれ故郷の大島へ立ち寄ったのだった。あと二ヶ月たつと新築のため、私の生まれた海辺の家が取り壊しになるからだ。宮本三郎ご夫妻が泊まったこともあるこの家も、今は、舟底造りの天井の太いはりが、黒い光を放っているだけ。背くらべの柱の傷ともお別れだ。
 一番末の弟がこの家をつぎ、自分の一番合っている生き方だからと、一人で漁師をやっているのだが、彼の話は面白い。魚は流れにそって泳ぐのではなく、流れに逆らって泳ぐのだそうだ。なぜ逆らって泳ぐのかというと、流れのままに泳いだのではエラ呼吸がうまくゆかず、エサも口に入りにくいのだとー。
 また海の生き物にはそれぞれプライドやメンツがあって、機嫌が悪いと一時間待っても穴から出てこないこともあるし、プライドさえ傷つけなければ、体をすり寄せて、人間に甘えたりじゃれたりするという。
 それにしても、このごろは海が汚れて、海底が傷めつけられてきているという。風向きによって、ビニールの群れが、今日はこちら、明日はあちらと漂っているなんて、海がかわいそうだ。
 月夜の晩にはエビはとれない。伊勢エビを食べたいと思ったら月のない晩とるのだ。今でこそ名人の弟も、新米当時はエビ網かけても、かかってくるのはビールやジュースのカンカラばかり。通る人に「海の中を掃除したの」と言われたそうだが、網から外したその空き缶を、今度はどこへ捨てたやら、まさか海ではないとおもうのだがー。
 

平成19年10月31日 「素晴らしい大島関連の作品展」
   
 

 大島岡田に三年暮らした不染鉄の原画七点を中心に、このたび大島にゆかりのある画家たちの展覧会が12月5日まで、大島藤井工房にて開催されているそうで、感動的な出来事と喜びたい。絵を好きな者にとっては、とても魅力的な企画で、藤井工房の存在と力を一気に噴出させた感がある。

 工房とか美術館とかは、その大きさや広さではなく、発想とまさしく情熱が如何ほどかにあるだろう。その展覧にともなって、不染鉄の文なども並べられる訳だが、何ともいとしい昔の大島が馥郁(ふくいく)と感じられて、胸がキュンとなる。
 藤井さんが工房を立ち上げた時、すでにこれらのことは、その胸に浮かんでいたであろうと思うと、大島の素晴らしさがジワジワと見えてくる。日々の地味な積み重ねの裏で、こうした情熱が藤井さんの胸の中で燃えていたと思うと藤井工房の存在をもっともっと大事にして、いとおしんでいきたいと思う。成功をお祈り致します、きっとお忙しいことと思います。
 今後の歴史的記録の第一歩だし、更に起爆剤となって、未来にもつながって行くことでしょう。

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