元町吉谷神社のおまつり


 
元町吉谷神社の神子舞は男の子が神子に扮して舞い踊る

    正月祭パンフレットPDF(平成28年正月祭に合わせて作成) 

NO1 正月祭の意義と歴史とは

NO2 祭の組織と神子について

NO3 祭の進行と内容① 出会いから奉納まで

NO4 祭の進行と内容② 踊りの列と役職から渡御まで

NO5 役職の用語の解説

NO6 正月祭にまつわる文化など

NO7 歌詞カード かけ声とかんちょろ節(年番)・花に咲くなら(非年番)

         

        
大島の文化・継承 それは大島の宝です

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ガイドブック
 大島里喜の顕彰
里喜本社中の踊り
竹本葵太夫は
大島生まれ
ソーメンシボリの謎に挑む
 吉谷神社
まつり
 
間瀬定八
赤穂遺児ー流人
七福神 * 
 
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 吉谷神社の正月祭(東京都無形民俗文化財)

 大島町元町の吉谷神社の境内でおこなわれる行事で、神子舞と奉納踊りとからなる。神子舞は10才くらいの少年が独特のかつら、亀鶴模様の振袖、五色の絹糸を垂らした女性巫女の装いをして鈴と御幣を持って舞う。奉納踊りは20才前後の青年10人くらいが、白鉢巻、茶・紺微塵の衣物、角帯、白足袋に黒緒麻裏草履をはいて、かんちょろ節、大島節、男伊達などを踊り、最後に鹿島踊りをつける。踊りの時には、看板と称する紙花を長竿の先にさしたものを立てる。

    

 曽根常吉著 「ひねくり」昔の子供の遊びより

 小学校校長先生OBの今は亡き曽根先生が子供の頃の「まつり」を生き生きと書かれているので

 正月祭の入門編としてここで紹介しよう。

 

  まつりごっこ(1)

 吉谷神社と浜宮様の祭礼は、確実に正月の十五日、十六日の両日であった。正月も三箇日も過ぎる頃になると、小宿では村の若い衆が毎晩ここに集まって手踊りの稽古が始まる。
 その笛や太鼓の音が聞こえてくると、もう子供
たちの気持ちは浮き浮きしてくる。そのうち、年番の北組か南組では、神子(みこう)の候補も決まって、神子宿ではこれまたあのなつかしい笛太鼓で、ここでもその稽古に熱中とはあいなる。
 
 
十五日の朝早く、古老や若い衆が出て、祭りの幟が村のあちこちに建てられる。「三原大明神」と筆太に書かれた幟、その上には、はなといわれる色どりのきれいな飾りもつけられて、遥か高いところで風にひらひらしている。幟のはたはたと風になびく音も、なんともいわれぬ快音である。村の年中行事として、学校の運動会とともに二大行事のーつとしての鎮守のまつりの気分は、こうしていやが上にもあがるのである。
 十五日は、北組も南組もお昼頃小宿大宿を出て、赤門こと旦那様に集まる。神子からかんちょろ節と、年番の組から始まって、非年番の組迄終わって
それぜれの宿に帰るのは夕方になる。  さて本番の十六日はどうだろう。宿を出るのは昨日より稍早目、甘晴堂の前というか、あの十字路に南北とも時間を決めてぴたっと集まる。この出会いの時間等に間違いでもあったらたいへん、ここで一悶着なる。まつり大将その他の幹部の責任は、ここから切実に始まるのである。
 例年のことながら、このまつりは、若い衆の手踊りと、神輿の渡御が主で
あって、手踊りは伝統的なものが主ではあるが、毎年南北とも新しいものを秘密のうちに採用しては、観衆をあっといわぜる趣向である。何しろ気のはやる若い衆揃いが、年に一度の一大行事をやろうということであり、ぞれが村を二分しての南北の競争ということでもあるので、いきりたつのも無理はない。これでこそ、シャツも着ず、冬の真っ最中を茶みじん、藍みじんに角帯という勇ましいいでたちで、平気でいられるというもの。このような若い集を抱えているから、まつり大将を始め幹部の皆さん、このまつりの一切の行事が無事終わるよう、ひたすらに祈る気持ちにもなるのである。
 その最初が、この北組南組の出会いということである。紋付き羽織と袴としろ足袋の清楚な服装、手には扇子まで持って、実に威儀
正しい彼等幹部ではある。それこそはれ物でも触るような気持ちではあろうが、そこは各組の代表、厳かにも堂々としきたりに従って挨拶を交わして、先ずは出会い無事終了となる。と同時に、今まで静まりかえっていた両組とも笛太鼓、囃子と、鬨の声さながらに唄い、踊り出す。
 年番、非年番の順で一行は吉谷神社に向かい、北組、南組と書いた見事なかんばんが各組の先頭に立っている。神主と幹部による神前の神事が終わると、いよいよ吉谷神社境内のまつりごととなる。昨日の旦那様
(=赤門)で行われたものと同じで、警固のしぐさが終わると、神子、かんちょろ節と、いよいよ興奮してやまぬ若い衆の手踊りとなる。所望 (しょもん=アンコール)を何回かしながらも、五時近くなって、神社の杜(もり)が薄暗くなる頃には非年番の番組も一切終わる。
 
さて、最後の手踊りが鹿島様である。ここで初めて南北の両組がいっしょになり、ぽんぼりに灯をともして肩にした唄い手を中にして、襟に御幣をはさんだ数十人の若者が声高らかに唄い且つ踊るのである。あの鹿島様の節まわしのなつかしさ、踊りは簡単であるが、若い衆一同が気を揃えての身ぶり手ぷり、そしてまつりごとの一大行事を全部終わろうとしての最後の張りのある歌声。 それが、薄闇となった今、ぽんぼりの灯も何かしら神々しく見え、この歌声は吉谷神社の杜を越えてどこまでもどこまでも拡がり、子供心では世界中に拡がって行くような感激であった。
 この鹿島様の状況は、その後元町小学校の運動会の最後に、紅白の椿の造花を持って踊るあの校歌の踊りによく似ているように思われる。鹿島様をまつりごとの最後とは書いたが左に非ず。これからしばらく休憩というか、準備に時間を要して、全く暗くなってしまってから神輿の渡御ということである。大人のかつぐ神輿は次に述べるが、子供たちはといえば樽てんのうである。四斗樽の菰かぶりの上にはわらじを胴体として作った鳳凰を飾り、それに金銀の金物や鈴等を所せましと飾りつけ、二本の長い杉丸太に紅白の太網で結わいつけたものが、この樽てんのうである。子供好きの数人の大人が心をこめて作ってくれ、この日もこれに群がる数十人の子供を相手に、まつりの行列の最後について「わっしょ」「わっしょ」と練り歩くのである。
 さてこの神興、平安時代の昔からの習わしか、京都の葵祭りの如く、まさ
に渡御にふさわしいもの。白の上下の狩衣(かりぎぬを着した氏子にかつがれて下に下にとばかり、静かにも神々しく村中を渡るのである。村の中、家々の軒下に土下座している諸々の氏子たちは、眼の前を通る時は深々と跪ずき、その後先に続く賽銭箱にお金やお米を投げ入れる習いであった。
 「まつりごっこ
 」の子供の遊びはどこへやら、吉谷祭礼のご紹介とは相成ったものだ。いな、さに非ず。このまつりごとの概況をいわずしては、おーらの「まつりごっこ」の心はつかめないからである。
 このように村人を、否、子供たちの心をわかせおどらせて十五日、十六日のまつりは終わった。村人も、若い衆もおのがじし落ち着いて仕事に精を出しても、おーらの気持ちはおさまらない。子供のうちには、このまつりがとても好きな者がおり、そのような者は唄もよく覚えているし、踊りもなかなか堂にいったもの。それが自分の身内に手踊りした若い衆でもいようものなら、それこそ得意で仕方がない。まつりの興奮のさめやらぬ仲間は、そこここにたくさんいる。
 また、がき大将になれる者は何処にもいるというもの。誰がいい出したということでもないのに、学校を終えると、これらの者が自然にがき大将の家に集まってしまう。まつりごっこはこうして、ごく自然に始まるのである。例の北組南組のかんばんがなければ感じが出ないのは共通の気持ちで、先ずこれから作り出す。例年のことなので、時には前年に立派な物が作ってあって、ぞれを利用することもあった。
 神子の道具もなくてはならない。頭のかんむりと着る物は無理だが、左右の手に持つ鈴と御幣位なくては、子供心にも実感がともなわないので、この
二つはなんとかして作ってしまう。笛、太鼓も必要な物であるが、笛はあってもふける者がいないので、これは口の笛で聞に合わぜることにし、太鼓はがき大将の家か、或はこの道で好きな誰かが持っている。これに、神子が踊る莚 (むしろ)かござがあれば、これで準備完了。がき大将即まつり大将ということで、いよいよまつりごっこは始まる.神子は裸ではないが、天岩戸前の天鈿女命(あまのうずめのみこと)よろしく女装して踊るので、恥かしがって、先ずは誰も遠慮をする。誰もやらないとまつりにならないので、困り抜いた揚句、思い切って誰かが申し出たり、時にはまつり大将の命ずるまま泣く泣くやることもあった。
 
やれやれ、これでまつりは始まり、次はみんなが得意のかんちょろ節ということになるが、この時こそ一同がハッスルして、ぞれはそれは賑やかなも のとなる.今でも覚えているが、まつりごっこの白眉はこのかんちょろ節であり、かんちょろ節で始まって、かんちょろ節で終わったといっても過言ではない。誰かが小型獅子を持っていた。こうなると、きやりよろしく、獅子舞もやったもの。全員得意なのは、「工一、アリャシタ。アリャシタ」のかけ声。そうすると、ひょうきんな者が出て来て、きやりを知るや知らずや、なんとかかんとかやっているうちに、寝てしまった獅子が起き出して大喚声となったこともあった。
 伝統を主とした若い衆の手踊りともなれば、毎年のこととて、子供らも唄の一部と手踊りの一部は覚えている。特に囃子はよく覚えているので、囃子はいつでも、全員唄も踊りも知っている、やり易いところをやっては満足したものであった。
 神社で脛もあらわな若い衆にまじって、六人踊りなるものがあった。六人踊りとは、若い衆に踊りを教える先輩の指導者陣であり、手のこんだ踊りを披露するのである。彼等は若者と違って、普通の着物でへこ帯、その下には上下とも毛糸のシャツを着ていて、足袋も黒いものであった。腕白のうちには、敢えてこの六人踊りを真似して拍手喝采を得る者もいた。
 まつりごっこは、二月の豆まきの頃まで、来る日も来る日も続いた。

 
 
 
 平成25年7月28日更新

18年1月におこなわれた「おまつり」の南組忘備録を私の実兄である立木忠造が平成18年9月にまとめました。兄は平成24年12月に永眠しました、「兄のおまつりへの熱意を永遠に残したい」と思いここに抜粋を紹介いたします。
本編は218ページあります、その中から写真を中心とした37ページを選んでPDFにしてみました、おまつり・忘備録に興味がある方は藤井工房で冊子を公開していますのでご覧いただくか、個別にご照会ください。

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