絞りてぬぐいの復元

                 
 大島の女性が祝事に被ったてぬぐい「ソーメンシボリ」の謎と復元に挑む


 
        
       
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 平成25年3月10日更新


 大島町文化祭作品展に大島ソーメン絞り研究会会員作成の「ソーメンシボリ」3点出品しました。

 作品展を見たご婦人3人が「私もやってみたい」と布を求めに来てくれました、反応があることはうれしいことです。
課題は絞った布に弾力を持たせること、引っ張るとだらっと伸びてしまいます。


 
 平成25年3月9日更新


藍の葉を煮出した残りの葉です 藍の染め液が下に溜まってます   藍の液に浸けて5分 空気に触れると青から緑色に
 
 平成25年2月27日更新

 謎だらけの「絞りてぬぐい」の復元を目指してからかれこれ9年、最近はあまり進展がないのですが、年に一度の大島町文化祭作品展に出品する「手ぬぐい作り」に着手しています。

 木綿生地を約1メートルの長さに切り、運針の目印になる点々を60段分(柿渋紙に穴をくり抜き、粉をツユクサの液で溶いて布に印をつける)これから一目ずつ運針します。男の私には苦手な分野ですが、工夫も要らない時間さえかければ終わりになる単純作業なので合っていると思います。
 チクチク縫っている姿は見せられませんが・・。

 作品展は3月8日から10日まで大島町開発総合センターで行われます いま3人縫っています



 
大島ソーメン絞り研究会結成の動機


  
 伊豆大島は離島のために長く南国特有の風俗風習が伝承されてきました。しかし終戦から昭和30年代にかけて急速に都会との交流が進み、あっという間に特有の風俗が消えてしまいました。 特に大島に豊富にあった椿の実を搾って出来る椿油を使って手入れをした婦人の黒髪は魅力的なものでしたが、この黒髪を保護するための被り物の「てぬぐいは」古くから用いられ、天皇陛下の御前でさえ着用を許された、と今でも伝えられています。

 普段は白地の普通の「てぬぐい」を用いていましたが、祝事の時には特に「藍染めてぬぐい」を着用していました。今でも古老が健在な家にはこの「てぬぐい」が大事に保存されていますが今みても気品のある織物です。素朴な図柄が染め抜かれており、大島の先人たちが守り育ててきた伝統の織物で、通称「ソーメン絞り」と呼ばれています。

 大島の古い史料や民俗誌などを見ると風俗風習のユニークな被り物としての評価は高いが、そのてぬぐいの素材、作り方、流通経路などについては記載がなく、島人が大事にしてきた割には謎が多い織物だと思います。

大島では明治時代から養蚕が盛んで、繭や絹織物に加工して東京に移出してきた歴史があり、紺屋と呼ばれる染物屋も存在していたので、何らかの形でソーメン絞りが作られ、染められていたものと想像することができます。

私(藤井工房)は平成11年に展示スペースと工房が同居した私設の資料館を開館させましたが、「大島らしいものを集め展示して伝え残してゆきたい」そう思っていたので、平成12年から謎ばかりの「ソーメン絞り」の文献調査とルーツ探しをはじめました。

手がかりは「島の女性が大事にして来たもの」、自宅に祖母から母に受け継がれた「てぬぐい」が8本あった、それだけでした。

 平成16年3月に集めた「染め柄」をてぬぐいにプリントした「大島名物オリジナルてぬぐい」を作って工房で販売をはじめました。

 これといった成果もないままだったが、2005(平成17)年5月に資料館の活動を島の人たちに知ってもらえるように「資料館たより2号」を新聞折り込みにした。その中にソーメン絞りの由来と「オリジナルてぬぐい」を作ったことを載せました。


 「たよりを見た」という大島に住むご婦人が訪ねてきました、「学生の時に機織りをやったことが有って絞りてぬぐいに興味がある」という話でした。

私には機織りの知識はなかったから、文献調査とルーツ探し以外に道はなかったが、この女性の出現で「途絶えてしまったソーメン絞り復元」を合言葉に「伊豆大島ソーメン絞り研究会」が2004(平成16)年秋に生まれました。

 会長は機織り経験者の
Sさん、私が事務局、7年ほど前に「ソーメン絞りの研究」で名古屋有松を調査されたF郷土史家に顧問をお願いし、総勢5人で活動を開始しました。

  


 昭和34年度の東京都教育委員会の「伊豆諸島文化財総合調査報告書」で大島における唯一の工芸品として「絞りてぬぐい」が取り上げられていました。ソーメン絞りは別名<養老絞り>とも呼ばれ、岐阜の養老地区あたりから発祥した絞りの技と考えられ、常滑の大きな水甕などと一緒に大島に渡ってきたものではないかと研究会では仮説を立てました。

 大島に現存する織物を岐阜県製品技術センターに送り調査してもらったところ、養老には絞りの技術は残っていないこと、愛知の有松・鳴海絞の系列ではないか、と教えていただきました。

 何故ソーメンと呼ばれたのか、大島に手拭いが流通されはじめたと思われる明治中期頃には、食物のソーメンは大島の祝いの席の御馳走として振舞われており、染め上げた藍染めの筋がソーメンに似ているから、という説も確認できました。


 てぬぐいに染め抜かれた絵柄は魚・水流・椿の花・菊の花びらなど
 島人が身近に有って大事にしたものを図案化して染めたものと思われます。

 
愛知しぼり協同組合・静岡浜松工業技術センターなどに照会をおこない、縫絞りの技法の中に「養老絞」の文字を見つけました。大島町図書館の文献を見たり、郷土史家に聞いたりしたが解明のヒントは見つけられませんでした。

まず、現存する「てぬぐい」が何で出来ているのか、どんな織り方をしているのか、染め柄は何を使っているのか、という織物分析を都立産業技術研究所に出してみました。

素材は平織りの木綿で、染め柄には「でんぷん」が残っていた、より数・繊度・密度・織物設計の成績データーもいただきました、私は機織りの素人なのでどんな特徴があるものなのか、織りが難しいのかどうか、さっぱり判りませんでした。

 2004(平成16)年、「まず復元に必要なのは機だ」ということになり、『大島特産品の開発事業』として「機の購入の補助申請」を町に提出、事業認定を受けることができ、会員応分で総額の1/5を自己負担して「機織機」を買いました、機の選定はS会長が京都まで出向いて決めてきました。

 2006(平成18)年3月に初めて大島町作品展にてぬぐいを出品。

 会長と顧問と私他数名で名古屋有松に調査に出かけました。有松訪問までに判っていたことは、有松鳴海絞りの「養老絞」が大島のソーメン絞りのルーツであること、平織りの木綿布地に絞り糸を機織りで織り込む「織養老」、絞り糸を手で縫う「縫養老」の手法があったということ、縫養老の技法は安藤宏子著の『絞りの技法』に詳しく掲載されてあったので、何度か試してみたがうまく行かなかった。
 

 
有松訪問がご縁で地元の染織家と交流ができ、『月刊染織α(アルファー)5月号』に手記を掲載していただくことができました。伊豆大島文化協会長であり当研究会の顧問の郷土史家藤井伸先生が原稿を書かれました。

 
 

大島を紹介する紀行記や文献の中に産業の視点で「ソーメン絞り」を解説したものはなく、風情ある被り物として紹介されているのがほとんどです。

昭和11年山口貞夫著『伊豆大島図誌』には「髪飾りは単に手拭いを巻くだけが本式である。これも以前はソーメンシボリと称する濃い紺地の養老絞りを用いた。老人は単に拡げて巻き付けるだけであるが。若い女は前面をなるべく拡げて、両端を挟め髷の下に結び、あるいは挟むのである。これには水と魚、蝶と花などの模様が画いてあるが、この手拭いを五十本百本、と数多く所有する事が女の誇りになっている由。近来は華美な手拭いなどを巻いている者が殖えたが、それでも正月盆その他晴れの日にはソーメンシボリを見る事は困難でない。養老絞りは古くは美濃から直接島へ来たが、近いころからは江戸茅場町の呉服屋三河屋吉右衛門と取引したという」そんな記述も見つけた、大島では作っていなかったのだろうか。

はじめて養老絞という技法の染めの反物の写真を山邊知行著書の中で見たが、それは我々がいつも見てきた大島のソーメン絞りてぬぐいとはかけ離れたもので、その写真のメモには「このやり方は76才の老人のみ知る」と書かれてあった。

有松・鳴海絞りの「養老絞」は平面絞りシワや谷や山などのシボは強くなく絞りの柄を複雑に出す技法のように感じられた、大島のてぬぐいは染めよりもシボの出し方に特徴が有るように感じていた、そんな疑問の答えを見つけるための有松行きであった。
 有松では昔から分業制で絞って染めていたそうで、大島に残ってるような「絞り染め」はできないだろう」ということで戻ってきたのだった。


 

18年11月、何とか手縫い絞りの形ができたので、島人に呼びかけて「第1回手縫い絞り体験会」を開催、当日は20人の女性が参加してくれた。最初なので簡単なハンカチ程度の大きさの木綿を縫って染めた、技術の優劣より「こんな復元を試みています」そういうPRもしたかったのだった、「思ったほどのものではなかった」そう思われたのだろう、毎月第二日曜の二時から定例の勉強会を開いているが、今活動しているのは会員の生き残りの4名だけだ。

19年3月大島町芸術文化祭の手工芸部門に出品した、言い訳に聞こえるかも知れないが、この時も「まだレベル面で出品は早いだろう」そう思う出来栄えだったが、「大島のご婦人方が長年大事にしてきた被りてぬぐいの復元」という取り組みが進行していることを知って貰いたい、それが第一の目標だった。去年の絞りはご馳走のソーメンにはほど遠い「うどん絞り」だと言われてしまったが、それは致し方のない現実であった。

 3回目の出品となる来年こそは「ソーメンになったねー」そう言って貰えるよう柿渋紙に運針目印の正確な印字穴を作り直し、縫った布地を両手で絞るための引っ張る補助具も作った、霧吹きをして強く引っ張ると自然と絞りシワが現われた。染め抜きの糊はトリクロロ何とかという科学薬品を使っていたが、廃液処理に課題もあり、昭和初期の村人が普通に入手できた材料でやってみよう、という原点に戻って「餅米の粉と糠」に変えた、染料は本当の藍は高価なので「インジゴ」をずっと使っている。
 
 
 なかなか思うように進まず、本当に大島で染めていたのだろうか、そういう疑心暗鬼になっていた頃に「頭にはいつも濃き紺色の養老絞りに水と魚又は蝶に花など簡単なる絵模様を白く染め出したる布にて包む、此布を素麺絞りといふ。長さは普通の手拭いに同じ養老絞りは美濃國養老産のよしにて、近き頃までは内地より輸入せられたるも現今は大抵島にて織り需用を充たすなり」という明治39年9月発行の東京人類学会雑誌に篠原とら子が書いた「伊豆大島の婦人」という文章を見つけることができた。真偽は定かではないが、例え大島で生産されていなかったとしても、「島人が愛着を持って大事に扱ってきた」という事実だけでも復元の意味はある、そう思うようにして取り組んでいる。
 
 こうして地道に勉強を重ねていることを知った島人からは「まだ絞り糸が入ったままの反物」や「島の呉服屋で売っていたと思われるてぬぐい、一反分を畳んで紅白の糸で留められている製品」を見せてくれる人などがいて多くの反物を見る機会にも恵まれた。
 

一番の課題は、最初からの課題でもあるが、平織り木綿の糸の太さと織り糸の混み具合(詰むというのだろうか)、残っている反物を見ると風合いというのか、本物の反物には布地全体のボリュームが厚くある、試作品は糸が細いせいか平べったくて頼りなく、絞ってみても弾力が出ない、出せない、それが一番の課題だ。

機織りの試作はS会長が続けているが、残念ながらまだ見通しは立っていない。機織りの知識があるのは会長だけだ、織り上がった後の作業は手縫い絞りと同じ工程になる訳なので、その日が来ることを心待ちにしながら「伊豆大島産の手縫い絞り」のレベルアップを目指して精進している。


 2009(平成21)年から3年間、大阪の武庫川大学の研究室から藍の種を分けていただき種を蒔いて生葉を収穫して染める実験をはじめました、葉っぱが思うように収穫ができずまだ濃く染まりません。これまでは化学染料のインジゴで生地を染めてきました、作品展には今までどおりインジゴで染めたてぬぐいを出しました、大分上達してきたように思いますが、どうでしょうか。
てぬぐい復元作業は「弾力を出す」という課題をクリアーできずに足踏み状態のまま。

 
 
 大島高校家政科の授業で「ソーメン絞り」実習の講義をおこなう。 
                                        

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