彫刻家木村五郎が彫刻技術を伝授
 
 島人に東京から来た彫刻家がはじめて木彫講習会を開いて伝授してくれたのが昭和4年です。その彫刻家は日本美術院彫刻部同人として活躍していた木村五郎でした。
 私の父が60年彫り続けた「あんこ人形」は木村五郎が島人に教えた形であることを知ってから「木村五郎の足跡調査をはじめ」ここまできました。
 
 全国区ではない彫刻家ですが、市川房枝(「婦選は鍵なり」「平等なくして                                   
平和なし、平和なくして平等なし」という信念の元に数多くの女性たちと活動                                   を続け、大きな功績を残した)記念会が運営するHP「女性と政治センター」の

婦選アーカイブスのコーナーにも若き彫刻家として登場しています。

  年譜・作品・紀行記・評伝と資料 で掲載。
 
        
         
木村五郎は 大島の宝 です

人形作って60年
(父の仕事
あんこ人形
創始者(重丸)
彫刻家木村五郎が
技法を伝授
農民美術の
世界
あんこ人形彫刻体験  あんこ猫が
お出迎え 

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 年譜
  
 

 木村五郎は大正の中期から日本美術院同人として石井鶴三らの指導を受け,彫塑の研究に励んでいた若き彫刻家です。芸術家の山本鼎が長野県上田から広めた「農民美術運動」に賛同して、各地の農民美術講習会の講師として活躍していました。はじめて大島を訪れた昭和2年から亡くなる昭和10年までに9回来島しています、水桶や薪を頭に載せて行き来する女達の姿に強く惹かれたようです。大島の木彫講習会に招かれ「あんこ姿」の人形をサンプルとして作り、彫刻の工程を指導しました。
 島人に彫刻を教えながら、南国の婦人風俗を彫刻作品に仕上げて日本美術院展覧会に出品しました。大島や北国の郷土風俗木彫は当時の展覧会では異彩を放つ作品でした、150余点の作品を残し37歳の若さで急逝しています。
 大島を愛した彫刻家の存在はすっかり忘れられた存在でしたが、「大島木村五郎研究会」が資料収集をおこない、その足跡をまとめた資料集を生誕100周年の記念の年(平成11年)に発刊しました。
 若き彫刻家は芸術作品の創作に止まらず、木彫入門書や彫刻批評、伊豆の島紀行などを執筆、京都宇治、長野川路、秋田大湯で農民美術指導をおこない、彫刻の普及とその水準の向上に尽くしました。血縁の方々が所蔵されていました作品や親交があった石井鶴三や松村秀太郎、市川房枝への書簡類の資料(参照)などを展示しています。
 木村五郎が駆け抜けた時代と童心の彫刻家の感性に触れてください。


                木村五郎略年譜              

1899(明治32)年  東京神田に生まれる
1981(大正7) 年  彫刻修業中、日本美術院同人の石井鶴三
              の門を叩く
1919(大正8) 年  山本鼎が提唱する「農民美術運動」はじまる
1925(大正14)年  手工芸協会が結成される
(会員 吉田白嶺・小杉未醒・松村秀太郎
                  田中善之助・木村荘八・栗田雄・橋本平八・木村五郎・石井鶴三)                              

1926(大正15)年  「木彫の技法」出版
1927(昭和2) 年  日本美術院同人となる
(当時の彫刻部在籍同人は吉田
                  白嶺・佐藤朝山・藤井浩佑・石井鶴三・保田龍門)

         昭和2年から日本農民美術研究所嘱託として
         各地の講習会で「木彫人形」を指導


1930(昭和5) 年  伊豆大島風俗木彫作品3点を院展に出品
1931(昭和6) 年  伊豆大島風俗木彫作品2点を院展に出品       
1933(昭和8) 年  「木彫作程」を出版
1935(昭和10)年  8月、多くの未完作品を残し37才で永眠


1937(昭和12)年  木村五郎作品集が所属していた日本美術院から出版
                  
             作品集後かき抜粋

             此集は、日本美術院同人諸氏の厚意に依りて成れり。
             集中二三制作当時の写真に依るものあれど、余は全部遺作展に陳列せ
             るものなり。
             表題に石井鶴三君、序文に喜多武四郎君、年表に宮本重良君を煩わし
             たる、皆故人と深き関係に因れり・・・・
                            昭和十二年六月  平櫛 田中


 五郎の作品
 彫刻家は郷土色溢れるその土地の風俗・風習の姿を木彫作品にして発表しました。また、農民美術講習会で素人に木彫を教え、木彫の初歩的な入門書を執筆しサンプルを示して木彫の技法を伝授しました 
 おとぎ話の主人公や動物・子供の姿なども製作、「童心の彫刻家」とも呼ばれています。
     昭和5年「水汲みの島娘」  昭和5年「薪を運ぶ婦人」   昭和6年「僻島早春」 昭和5年「前垂を被る婦人」    昭和6年『孤島薄暮」  
                                                        (伊豆八丈島風俗)   
 
 北国風俗木彫作品


  
 童心の作品

     巡査と少女           人形背負える少女             赤鬼                題名不詳                                      
 五郎の大島紀行記
 
 
東京から来た彫刻家がはじめて島人に農民美術講習会で伝授してくれたのが昭和4年です。その彫刻家は日本美術院彫刻部同人として活躍していた木村五郎でした。
 すっかり大島が気に入り、昭和5年の伊豆大島独特の婦人の風俗・風習を紀行記にまとめて美術雑誌に載せています。
                  
 
 《伊豆大島婦人の風俗・風習》 「アトリエ」昭和5年9月号

 
「大島婦人の風俗と風習と容貌、体格は芸術的感興又は土俗学的興味を惹くに充分です。近年都会文化の浸潤につれて、漸次失われつつあるは止むを得ぬ事ですが、然し未だ猶昔乍らの郷土的特性を多分に残しています。東京へ海上三十六里に比して、東京へその距離3倍もあろうところの八丈島がかえって都会風であるのは可笑しい位です。
 先ず、地形から言えば大体楕円形の薩摩芋形をなし、東西直径2里半、北東五里、周囲約10里という東京市よりも小さい太平洋上のほんの小天地です。
 凡て島人の思想信仰の中心となっているところの火山三原山が島の中央に位置して、その裾野を回った海岸に、泉津、岡田、元村、野増、差木地、波浮の6ケ村の部落が形成されています、このような小さな島内にあっても、各々風俗乃至容貌、気風なども少しずつ異なっているのは面白いと思います。 うち比較的中央に位する元村が島の文化の中枢をなしている訳、したがってこの記述も元村を大体の基準とせねばなりませぬ。
 ここの婦人達はものの持ち運びは凡てそれを頭上にして歩きます。その耐重力は凡そ米一俵とされていますが、よく浜辺などで自分の身長ほども高く積み重ねた薪を悠々船に積み込む労働をみることがあります。時としては余りにも不均り合いな、手にもってもよさそうな、と思われるほどの小さな風呂敷包み一つさえ之を載せて歩きます。
 可憐な少女は又お使いのお豆腐を頭上にして歩いています。髪をお下げにした小学校の女性がなお写生の画用紙と画嚢を頭にして5、6人一隊をなしてやってきます。
 服装は至極簡易、素朴、然も洗練されているんです。多く紺絣の筒袖に毛繻子で縁をとった三布の前垂掛け、帯を用いずに前垂の紐を巾広く之をきりりッと2巻きになし帯の兼用とします。素より日本の帯の美しさは世界に自慢し得るものの一つと思うが、又帯を用いない大島婦人の露に溢れた健康感と服装の郷土的特異性にはきつい魅了と原始への憧れを感じない訳にはゆかないのです。常春の島では夏季を除いて殆ど襦袢に袷一枚、前垂掛け、頭上に物を載せて歩く場合、腰で左右に調子をとる、そのかっちりと丸味をもった腰の量感。一体に重量を頭にするため体格は強健にして猶情致をもっています。それも近来漸く文化の普及と共に落ちてゆくのは遺憾なことです。
 又、時に綺麗な襷を十字に綾どります。一体が筒袖ですから之は実用よりも装飾の意味が多い。従って山仕事、畑仕事の労働よりも他人と共になす多く人目に触るる仕事、例えば祝儀、弔儀に際しての手伝いとか乃至は浜辺での薪積のような場合に。けれども野増村の婦人以外には平常他で見ることは少ない。現今ではその素材概してメリンスですが、古くは美しい色とりどりの縮緬を3つほどに接いで之に絹房を垂らした如き極めて艶麗なものだったのです。私もその美しいのを1本もらってありますが、それを数多く所有するを自慢となしたり、嫁入りの引出物とされたり、蓋し襷の島の女性の情緒が配せられる点、ここの婦人とよく対照される京都大原女にも之に似た風習があるのは面白いと思います。
 結髪は島特有の既婚者はいんぼんじり巻となし、それに手拭を巻き髷で押えとします。いんぼんじり巻は東京で謂ういぼじり巻と同語ではないかと思われますが、畢竟東京の丸髷と同じ妻君のシンボルです。
 未婚者はもと矢張島特有の投げ島田に結んだのですが、岡田村以外では之を結ぶもの少なく、今ではいんぼんじり風の簡単な束ね方が多くなりました。この投げ島田は所謂島田髷のずっと原始的のものかと考えられます。東京博物館の埴輪の内に島田髷風の婦人像のあるのをみてもこの髷の原形は遥か古代からのものであったようです。
髪に巻く布地は昔そうめん絞りという木綿縮の紺地に白の模様を抜いた独得のそれを用いたのですが、近頃は老婆又は所謂よそゆきの折に之をみるばかり、多く手拭を巻いています。然し又手拭といえども古いもの汚れたものを何より恥としている清潔な、健康な若い彼女達には明るいナイーブなよき調和をなしています。猶又手拭は寝る時以外には決してとりません。特にそうめん絞りは昨年、聖上行幸の折、御前に於てもお許しを得た、と島では自慢の一つにしています。又、或いは風の冷たい日に前垂れを調子よく被って歩いているのをみることがあります。あたかも武装の感じで、事実山の繁みに入り込んで仕事をなす場合にもこうされて顔に傷を受けるのを防ぐでしょう。乃至は肥料桶の如き汚物を頭上にする場合にもこうされましょう。

 履物は殆ど自製の藁草履、如何なる労働にも之を履き、全然草鞋を知りません。形は履けば踵が出るほどに丈短く、鼻緒に至っては廃物の布を利用して仲々綺麗なものです。土地が砂地故、少しの雨降りでも之を履いて歩行しています。
 前述した如く6ッ村各々その風習、容貌、気質などを多少づつ異にし、各々その特長を持っているのですが、就中岡田村の婦人に至ってはよく昔乍らのそれを保持し、眉目美しく、純朴なうちに或る種の気品をさえ湛えているのは特異とするところです。その容貌藤原型に似て眼細く情味をもって、頬は毬のように豊かな丸まり方をなし、潮焼はありましょうが、肌共に美しく滑らかです。で、ここの娘達こそ今なお房々とした頭髪を島特有の投げ島田に束ねています。
 差木地、波浮の婦人の容貌も又大いなる特長を表示していて、一見あのひとは差木地だ、と断定でき得る程のようです。岡田村とは宛ら反対の感じ、極端な典型人としては顴骨と下顎骨が以上に隆起発達していて、若し辺をつくるならば稍々六角形をなし、骨太ながっしりした感じを持っています。元村は島の中心地であるだけ一番雑種であり、私にはその特長なるものを具体的に指示することは困難です。
 凡そ島の娘達は各村とも全然脂粉の類を用いません。勿論一世一代の嫁入りにもそうです。序に島娘の総称をあんこと呼んでいます。
 大島は火山噴出の溶岩の類をもって組成されている島です故、水の湧出乏しく、用水には実に不自由をしています。各村極く僅かな井戸の朝な夕なここへ島の娘達が桶を頭上に支えて水汲みに通います。その娘達の紛々と交錯をなした水汲みの情景は島の一つの名物でしたが、それもだんだん見られなくなりました。と、いうのは今はたいていの家にコンクリート造りの地中タンクを備え屋根よりの雨水を樋に導き、それを貯水して井戸と同じ様工夫に之を使うようになりました。あたしゃ大島雨水育ち、腹に孑孑は絶えやせぬ、というとぼけた大島節があるくらいです。但し之は雨水を天水瓶で貯めた昔のこと、現今の地中タンクの水はずっと清澄で味も水道のそれに似ています。
 元村には湯屋が2軒あって、各備え付けのタンクの水が不足を告ぐる場合、労働婦人であるところの島娘に水の運搬をさせます。水桶を頭上にした3、4人の一隊は海辺の井戸から湯屋へ、急勾配の坂道さえ姿勢正しく悠々と列をなして登ってゆく、この行列も又一つの奇観でなくてはなりません。その距離約一丁半、賃銀1桶1銭5厘、一日凡75回乃至80回ほどできると聞いています。
 島の婦人には全く叩頭(おじぎ)の礼がありません。之は私には極めて奇異の発見で、近頃となえている虚礼廃止論の見地からゆけば寧ろ進歩ではないでしょうかーーいや島には進歩と言えばいわるる事柄を多くもっています。産児制限、息子の結婚後の別居等々――神社、寺院への参詣すら実にあっさりとしていて叩頭祈願の婦人をみたことがありません。
 島の婦人を妻君にして、島にもう永居住している親戚であり、友人であるひとのその家を久しぶりで訪ねるにも私は黙って入って黙って帰ってきます。私のようなしちめんどくさい挨拶のできぬ野人には気が楽です。お互いの好意は容子態度で解るものです。婦人間の知己同志、路上で会えばドホエイッタヨー(何処へ行ったか)と言葉を交わすか、全然表情をもって軽い挨拶とします。私は思うに頭上に物を支える習慣から頭を下げるおじぎが生まれなかったのではないかと頭上にものを支えては顔を動かすことができない、眼を働かせます。それ故私達には若い娘達のその眸からながしめのような情味を感じます。

その他書きたいことは結婚式奇風、葬式異風、建築様式、大島節のこと、舞踊のこと、言語のこと等、等沢山ありますが、今は紙数に余白もなく、表題の範疇外でもありましょうから次の機会とします。猶あんなに億劫に思われた大島へは近来汽船は大きくなり、且つ日航となり、いつでも夜10時頃京橋霊岸島を発てば翌日ほのぼのと夜の明けかかりに島に着く程、凡てが気軽に行けるようになった事を付記しておきます。」



評伝・資料 


 「これは彫刻になっております」
                           ―木村五郎の彫刻とその生涯―
                         千田敬一著
  

                   
 
大正の中期から昭和初期に活躍した日本美術院同人の彫刻家木村五郎の生涯が本になります。著者は日本近代彫刻の研究で知られる美術史家千田敬一氏(元碌山美術館学芸員)です。
 千田氏は日本美術院彫刻部の同人であった石井鶴三や中原悌二郎、戸張孤雁や多くの彫刻家に影響を与えた荻原守衛、高村光太郎らの作品、前述の彫刻家より少し若かった橋本平八や喜多武四郎、宮本重良など近代彫刻史に名を残す彫刻家の作品の研究に関わってこられました。
 木村五郎は日本美術院で創作をはじめた22歳から急逝する37才までの短い彫刻家生活で150点余りの作品を作り上げています。
 今はすっかり忘れられた彫刻家ですが、目指した彫刻の形、彫刻家の苦悩と葛藤、木村五郎が生きた時代と交流のあった彫刻家との出会いなど、下記の目次のような構成で木村五郎の生涯が綴られています。(223ページ)

「これは彫刻になっております」は石井鶴三が木村五郎の伊豆大島などの風俗木彫作品を評した昭和5年の言葉です。

  活字も大きくシンプルできれいな本だ、と誉めていただいています

    市民タイムス2005年7月31日記事 美術史家千田敬一さんが評伝を出版
 



 

 目次                           
 第一章  彫刻と非彫刻             
 第二章  漫彫は、浪漫彫刻、漫画彫刻?      
 第三章  数奇な生い立ち             
 第四章  師匠を求めて―山本瑞雲から石井鶴三へ 
 第五章  五郎、日本美術院の研究会員になる   
 第六章  再興日本美術院研究所時代       
 第七章  関東大震災と窮乏時代         

 第八章  再興日本美術院々友になる       
 第九章  『木彫技法』、『木彫作程』の刊行   

 第十章  『木彫の技法』「彫塑私観」から     
 第十一章 『木彫作程』「彫塑の芸術相」から   
 第十二章 『木彫の技法』『木彫作程』の彫刻の  
         諸要素について            
 第十三章 五郎と農民美術            
 第十四章 五郎と橋本平八            
 第十五章 風俗木彫の個展―即興画一筆描き程度?―
 第十六章 五郎と長野、秋田の農民美術      

 第十七章 手工芸協会              
 第十八章 五郎の女人恋慕            
  第十九章 再興日本美術院彫塑部同人時代     
      「これは彫刻になっております」    
  第二十章 五郎と大島あんこ人形         
  第二一章 大乗美術会              
  第二二章 五郎の突然死、なぜ?         
  第二三章 新興美術家協会顛末記         
  第二四章 木村五郎のしごと           
  別章   大島あんこ人形が、眠りから覚めた   
  注釈                      
 木村五郎略年譜                 
 発刊に至るまで (木村五郎研究会筆)
   
       彫刻家木村五郎の足跡が明らかに平成17年出版 
       定価 2,000円(税込み) 郵送料 実費


平成25年1月27日NHKEテレ放映
女たちは解放をめざす
~平塚らいてうと市川房枝~ が放送されました。
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市川房枝女史と彫刻家木村五郎の接点 

放送の中身は残念ながら私が期待したものではなかったので、私が思い描くヒストリーをここに紹介します。

若き彫刻家が市川女史の胸像を作ろうと試み
未完に終わる 女史の機関紙「婦選」の表紙絵を木村五郎が長く提供して交流を続けました。 
  

 テレビ放映で若き市川房枝女史の写真を初めてみて、「婦選」表紙の観音像とそっくりだ、そう思った次第です。

 彫刻家木村五郎の足跡を調査してきた「伊豆大島木村五郎研究会」は市川房枝自伝にある交流の証しを求めて平成10年12月に新宿の婦選会館を訪ねました。
 当時木村五郎が装丁を担当した機関雑誌「婦選」を数冊、葉書、寄せ書きなどの資料を見せていただきました。聖観音レリーフも所蔵されています、昭和5年から永眠する昭和10年まで関わっていました。
 市川房枝の「婦選」発行は昭和2年から16年まで続きました、亡くなる直前の昭和10年1月号表紙とカットの版画切り貼り、市川さんの前に現われた時と同じような黒マント姿の写真が木村家のアルバムに残っていました。

 彫刻家木村五郎に関する資料は極端に少なく、現存する作品もわずか、公的機関で所蔵する作品はほとんどありません、それは一流に届かずに生涯を終えたという証明になってしまうのでしょうか。
 木村五郎には子どもはなく、五郎没後夫人は主だった作品を売却処分したのでしょうか、ご遺族が所蔵する作品は「石膏像」「ブロンズ像」や「未完成の作品」「習作」など10数点に過ぎません。 
 足跡をたどる調査はほぼ行き詰まってしまっていましたが、【伊豆大島ふるさと文庫主】郷土史研究家樋口先生から貴重の資料をいただきました。

 月刊機関誌「婦選 昭和6年6月号」(木村五郎装丁)に関係者が慰安で訪れた伊豆大島の記事が載っています。「大島紀行」といタイトルで市川房枝・武知美与子・児玉勝子・金子しげり・高田まつよ・宮川静枝・鈴木すみ、七名の参加者たちが大島の印象を各々綴っています。

「機関誌・本部の日誌より」の項に大島行きの旅程が書かれているので転記してみます

昭和6年5月10日  事務所の一同、大島へ行ける事になり、午後十時、霊岸島からたちばな丸で出帆する。

昭和6年5月11日  大島滞在

昭和6年5月12日  早朝の船で下田に廻り夜帰京の予定のところ、ひどい嵐で、遂に一日島流しになる。東京の事も気になりながら、船が出ないのには手の下し様もなし。これは不可抗力だからと、自らに言いきかせて落ちつく。

昭和6年5月13日  今日は船は出そうもない。半分は自暴自棄で投げ出してかかっていたが難航を覚悟で、船は下田を出たとの報に、急遽かえり支度をととのえる。大島を出たのが三時、東京迄十時間はかかろうとのこと。それでも案外早く、十一時に霊岸島に無事帰りつくことが出来た。

  市川房枝は文の最後をこう結んでいる。
 『この旅、天候にはいささか恵まれなかったものの、島の印象は寧ろ雨で優ったともいえよう。とにかく一同声を揃えて「又も行きたやあの大島へー」と唄っている』



 3泊4日の旅の顛末は「大島紀行」に記されている、一行を案内したのは木村五郎の親戚にあたる大橋清氏でした。題のカットは木村五郎の「元村小学生」、弁当箱一つ、風呂敷包みでも何でも頭に乗せて運ぶ当時の島の暮らしぶりが描かれています。昭和8年に大島風俗木彫作品に仕上げて第20回日本美術院展に【「通学の少女」(大島風俗)】として発表しています。


  市川房枝と歩んだ「婦人参政権運動」人ひと 2015年発行より転記(藤井工房資料提供による記事)




  

   
 『市川房枝自伝・戦前編』 (新宿書房)から抜粋


 新団体(婦人参政権獲得期成同盟)の最初の対外的な運動は、大正十四年一月十七日、神田のキリスト教青年会館で開いた、「第一回婦選獲得演説会」で、奥むめお、桜井ちか、坂本真琴、平田のぶ、久布白落実氏らと、私も加わって「婦選運動の婦人運動における地位」について講演した。
 ところがこのあと、講演会を聞きに来ていたという若い彫刻家から、モデルになってくれないかと申し込まれた。その人は美術院会員の木村五郎氏であった。二月のある寒い日の夕方、琴平町の事務所で、黒いマントを着たまだ二十五、六歳と思われるご本人に面会、ストーブにあたりながら話した。日曜ならと承諾。それから毎日曜の午前中、ときには午後まで、兄の家の応接間でモデルになった。しかし、その日曜も講演などでぬけるので、夏近くなってもできあがらなかった。スーツで椅子に掛けているポーズだったが、だんだん暑くなってきた。木村さんはそれに気づいたのか、また作品に不満だったのか、「首だけにしましょう」と、みている前で無造作につぶしてしまった。ところがその首も、一応でき上がったがこれまた気に入らぬとこわしてしまい、ついに作品は何も残らなかった。やめたとき、彼は「淋しくなります」と言った。
 このモデルになっている最中、『婦人公論』三月誌上に、山田わか、金子しげり、平塚らいてう、守屋東、石原修、為藤五郎氏らの「人物評論・婦人参政権運動の陣頭に立てる市川房枝女史」が載った。これを木村さんが読んだとみえて「僕なら『市川房枝美人論』を書いたでしょうに」と言った。そのころまで、私は美人だなどといわれたことは一度もなかった。七十歳を越してから、脚がきれいだとか、昔は美人だったでしょう、といってくれる人があるが、「ツー・レート。遅すぎる!」と笑って答える次第である。
 木村五郎氏はこうした縁で気安く機関誌の表紙やカットを無料で書いてもらったが、その後結婚して、数年後に亡くなってしまった。



 

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 伊豆大島木村五郎研究会が企画・資料提供して千田敬一氏(元碌山美術館学芸員・日本近代彫刻史研究家)に執筆していただいた『「これは彫刻になっております」木村五郎の彫刻とその生涯』の中で著者は市川房枝の胸像について「五郎の女人恋慕」の項で触れています。

・・彫刻家五郎には、信念に燃えて仕事をする市川さんが本当に生き生きした美人に見えたのでしょう。むろん、市川さんに惹かれるものがあってのことでしょうが、それを表に出す自信が無かったと思います。・・五郎には市川さんの人格が彫刻に十分に表れていると思えなかったのでしょう

 五郎は何故市川さんの胸像を完成できなかったのでしょう。もし完成していれば、五郎の作品のなかで重要な位置を占めるものになったと思われます。・・五郎は最初、市川さんの大きな人格と溌剌とした姿のなかに、自分を包んでくれる母性があると勘違いしていたのかもしれません。ところが肖像を作っているうちに市川さんは尊敬できる女性であるが、自分の求めるような個人的な幸せに埋没できる人でないことがわかってきます。そして自分の作品が、市川さんの大きな人格や、世間の不条理と戦う市川さんの姿を表現していないことに気付いたのでしょう。自分の未熟を知った五郎は、作品を壊さざるを得なかったと思います。作品を壊して市川さんの前を去るとき「淋しくなります」と言った五郎の胸中は、何時か市川さんに相応しい人間になります、いま近くに居る資格のない自分が淋しいという気持ちで一杯であったと思われます。

 ・・市川さんの所には、五郎の昭和6年作のレリーフ【聖観音】が一点あったそうです。柱にでも掛けてあったのでしょうか、市川さんの養女が埃を被ったまま掃除をしないで放置しておいたところ、市川さんが珍しく激怒したという逸話が残っています。市川さんは、五郎との親交を振り返って「恋といえるかどうか・・・」と回想しています。・・
 
  
 木村五郎資料集 (伊豆大島木村五郎研究会自費出版・平成11年8月1日発行)

 

(第1巻)【童心の彫刻家】 353ページ

 口絵 大島婦人風俗絵葉書(木村五郎木彫作品6枚組み)・水汲みの島娘・街へ・炭焼子帰窯

【第1章 木村五郎著書・紀行・論評ほか】
 木彫の技法(大正15年12月アルスより出版)/木彫作程(昭和8年9月金星堂より出版)/木彫の技法・推讃(石井鶴三)アトリエ昭和2年2月号/伊豆大島婦人の風俗風習(アトリエ昭和5年10月号)/新島紀行(文芸春秋昭和10年5月号)/八丈流島 (昭和6年11月号)/春陽会のこと(アトリエ大正14年4月号)/仏展ロダンの歩む人(アトリエ大正14年10月号)/木村五郎氏へ(佐藤朝山)アトリエ大正14年11月号/新美術館と太子展批判(美之国大正15年6月号)/電車の中で(美之国大正15年12月号)/構造社展所感(アトリエ昭和2年10月号)/戸張孤雁の芸術回顧(喜多武四郎 牧雅堆 木村五郎)アトリエ昭和3年2月号/下村・原両氏の仏像見学の記(アトリエ昭和3年9月号)/彫塑室で感じたこと二つ(アトリエ昭和3年10月号)/工芸五人展所感(アトリエ昭和4年1月号)/国画会の彫刻(アトリエ昭和4年6月号)/罪のない失敗談(美術新論昭和6年6月号)/原始的精神の奪還(アトリエ昭和4年9月号)/院展の彫刻に就いて(国民新聞昭和7年9月号)/彫刻評 院展・ニ科・構造社(宮本重良 木村五郎)アトリエ昭和8年10月号/作品彩色メモ・自作解説・風俗解説

【第2章 農民美術とその時代】
 信州人物風土記・近代を拓く山本鼎より(宮脇勝彦編)/農民美術(豆南生)/農民美術生産組合の一員として(大橋清史)/組合員の消息(大橋清史)/農民美術に就いて(山本鼎)島之新聞昭和4年6月/大島に農民美術が生まれたこと(木村五郎)島之新聞昭和4年3月/思いついたこと二、三(木村五郎)島之新聞昭和4年6月/木彫人形を見て(中川紀元)/木村五郎農民美術講習会指導の足跡(編集部)
〔大島〕昭和初期の大島(写真)/旅帖・大島追憶(加藤淘綾)/見聞記(西沢笛畝)/組合員の作品・絵はがきほか(大島農民美術組合)/大島農民美術組合作品について(島乃新聞)/東京府への資金要請の調書(大島農民美術組合)/五郎さんの想い出(藤井一恵)

〔宇治農民美術講習会〕宇治茶摘人形 講習会写真/書簡 木村五郎を宇治の講習会へ派遣するについて(山本鼎)
〔川路農民美術講習会〕伊那踊 初期の踊・男女 木村五郎指導の人形 講習会写真/山本鼎デッサン画/木村五郎と川路の農民美術(山口畑一)
〔大湯農民美術講習会〕木村五郎の絵はがき人形/大湯みやげ 牛追い・農婦・雪の童女・雪の娘四体(所蔵 藤井一恵)/東北郷土玩具研究・大湯人形(丹野寅之助)/秋田大湯農民美術講習会の記録(浅井小魚)/農民美術大湯人形について(勝平得之)

【第3章 日本美術院と木村五郎】
 美術院の彫刻(石井鶴三)/木村五郎との接点(市川房枝)/木村五郎作品とその評価(作品を出品した展覧会と評論家による論評)/少女と女の彫刻展(掲載新聞社名不明)/品展を見る(藤井浩祐)/木村五郎個人展所感(橋本平八)/手工芸協会趣意(石井鶴三)/大乗美術会第一回試作展(中島謙吉)/大島スケッチブック(石井鶴三)/大乗美術会第二回展(中島謙吉)/秋田風俗木彫展(秋田魁新報)/批評態度に就いて・木村五郎君へ(藤川勇造)/アトリエを訪ねる・木村五郎氏(アトリエ編集部)
木村五郎追悼(石井鶴三)/深川時代の木村君(喜多武四郎)/木村五郎君追憶(中島謙吉)/遺された義兄達の私語(大内青坡 青圃)/木村五郎君追慕(宮本重良)/木村五郎氏の訃(市川房枝)/木村五郎先生を憶う(半藤政衛)/故木村五郎氏を語る(大橋清史)/対話(大内青坡・青園)
日本美術院年報より
[昭和十年・十一年版](日本美術院)/木村五郎作品集(標題・石井鶴三 序・喜多武四郎 後書き・平櫛田中)/新収蔵作品・農夫 碌山美術館報十六号(基俊太郎)/碌山美術館収蔵作品集より 木村五郎紹介文抜粋(碌山美術館)/大島温かい自然と安らぎ 伊豆大島の木村五郎作品調査について(千田敬一)/市川房枝追悼の週刊誌から/木村五郎先生のこと 半藤政衛氏聞き取り(編集部)/兄さんの想い出 木村芳子氏聞き取り(編集部)/木村五郎が活動した美術団体
(手工芸協会・緑香会・大乗美術会・新興美術家協会)

【第4章 書簡】
石井鶴三宛(36通)松村秀太郎宛(23通) 大橋清史宛 松原松造宛 喜多武四郎宛 市川房枝宛 彫塑部宛 平櫛田中宛 半藤政衛宛 姉上宛 大橋一恵宛(木村迪子)/木村五郎宛 旅先から(石井美佐)

【第5章 年譜】
木村五郎年譜 木村五郎研究会補足版
あとがき

(第2巻)【作品とおもかげ】 123ページ

口絵 「婦人脚部」 製作風景・木村五郎プロフィール
第1部 彫刻・工芸品(作品145点のうち確認できた112点の図録)を時代順に掲載
第2部 版画 賀状 版画「浴後」 婦選表紙・冊子のカット
第3部 アルバムから 日本美術院 展覧会 語らい 家系図
あとがき

       平成11年に自費出版した「木村五郎資料集」(本体3500円+送料実費)にて頒布中です

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